楊倹

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楊 倹(よう けん、生年不詳 - 542年)は、北魏から西魏にかけての軍人政治家景則本貫恒農郡華陰県

経歴[編集]

楊鈞の子として生まれた。北魏の正始年間、侍御史を初任とし、奉朝請を加えられ、員外散騎侍郎に転じた。孝昌年間、鎮遠将軍・頓丘郡太守に任じられた。元顥の招きに応じてその下で従軍した。528年、給事黄門侍郎・左将軍・太府少卿を兼ねた。元顥が洛陽に入ると、撫軍将軍となった。孝荘帝洛陽に帰ると、家に蟄居させられた。まもなく散騎常侍・都督潁州諸軍事・潁州刺史として再び起用された。530年、征南将軍・金紫光禄大夫の位を加えられた。532年衛将軍北雍州刺史に任じられた。善政で知られた。534年孝武帝関中に入ると、侍中驃騎将軍となった。535年、西魏が建国されると、本官のまま東秦州事を代行し、使持節・秦州大都督を加えられた。537年、西魏軍が沙苑の戦い東魏軍を破ると、楊倹は夏陽県侯に封じられた。541年、大丞相府諮議参軍を兼ね、都督東雍華二州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・華州刺史として出向した。542年、家で死去した。は静といった。

子女[編集]

  • 楊文乂
  • 楊文休
  • 楊文褒
  • 楊异(字は文殊)
  • 楊勰(字は文雍)
  • 楊文挙
  • 楊朏(字は文朗)
  • 楊文雅
  • 楊文若
  • 楊文偉
  • 楊氏(竇栄定の妻)

伝記資料[編集]