棗拠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Miraburu (会話 | 投稿記録) による 2022年2月23日 (水) 05:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:三国晋の人物を追加 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

棗拠(棗據、そう きょ、生没年不詳)は、中国晋代文人官僚は道彦。本貫潁川郡長社県

経歴

鉅鹿太守の棗叔禕の子として生まれた。容貌が美しく、文辞を得意とした。弱冠にして大将軍府に召し出され、山陽県令として出向して、統治の成績を挙げた。尚書郎となり、尚書右丞に転じた。賈充を討つにあたって、棗拠はその下で従事中郎となった。凱旋すると、黄門侍郎・冀州刺史・太子中庶子に転じた。太康年間に死去した。享年は50余歳。生前に著した詩・賦・論45首は、戦乱のために多くが亡失した。

子女

  • 棗腆(字は玄方、永嘉年間に襄城郡太守)
  • 棗嵩(字は台産、太子中庶子・散騎常侍、石勒に殺された)

伝記資料