松平直義

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松平 直義(まつだいら なおよし / ただよし[1]宝暦4年4月28日1754年6月18日) - 享和3年10月22日1803年12月5日))は、出雲広瀬藩の第7代藩主。直政系越前松平家広瀬藩分家7代。初名は長善(ながよし)、のち近義(ちかよし)[2]直義と改名。通称は主税(ちから)。

系譜・生涯

美作津山藩主・松平長孝(出雲広瀬藩第3代藩主・松平近朝の三男)の次男。母は藤堂高治の娘(藤堂高朗の妹)。津山藩主を継いだ松平康哉は兄に当たる。正室は伯太藩主・渡辺信綱の娘(松平近明の孫娘、養父松平近貞の姪)。官位は従五位下。淡路守。

1773年、先代の藩主近貞の養子となり、同年のうちに家督を継いだ。米沢藩主の上杉治憲(鷹山)とも仲が良く、直義自身も才能に優れ、藩政で手腕を見せ、広瀬藩中興の君と言われた。また、文化人としての側面もあり、茶の湯に興味を持っては、同じく出雲国の松江藩主で親戚にあたる松平治郷(不昧)の門人となっていた。

享和3年(1803年)10月22日に死去(享年50)。法号は本覚院。生前、50歳を過ぎた近貞に(つまり直義に家督を譲った後に)実子の直寛が生まれ、直義はこれを順養子として迎えており、死後はこの直寛が跡を継いでいる。

脚注

  1. ^ 「なおよし」の読みは下記外部リンクのページより。足利直義と同じ読みで「ただよし」とされることもあるが、以降の当主に合わせて「直」は前者の「なお」と読むのが正確と思われる。
  2. ^ 下記外部リンクより。養子入りする前までは父・長孝より1字を賜って長善(長義)、近貞の養子になってからはその1字を賜い初めは近義と名乗っていた。

外部リンク

  • 松平直義(コトバンク/「講談社 日本人名大辞典」)