東行記念館

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東行記念館
地図
施設情報
正式名称 下関市立東行記念館[1]
専門分野 歴史
事業主体 下関市
管理運営 下関市教育委員会
開館 1966年(昭和41年)4月14日
所在地 750-1101
山口県下関市大字吉田1184
位置 北緯34度5分9.2秒 東経131度4分16.3秒 / 北緯34.085889度 東経131.071194度 / 34.085889; 131.071194座標: 北緯34度5分9.2秒 東経131度4分16.3秒 / 北緯34.085889度 東経131.071194度 / 34.085889; 131.071194
アクセス JR小月駅からサンデン交通バス15分
外部リンク http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp
/kyoiku/chohuhak/tougyou.html
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東行記念館(とうぎょうきねんかん)は 山口県下関市大字吉田東行庵境内にある高杉晋作の記念館。

歴史

高杉晋作の没後100年事業の一環として、宗教法人東行庵が運営する私営博物館として同庵境内に1966年(昭和41年)4月14日に開館。開館当初は晋作の遺品や奇兵隊の関係資料などを展示していた。

しかし2003年1月、高杉晋作の子孫が「東行記念館での資料の展示状況や保存状態が悪い」ことを理由に展示史料の大半を高杉家に返還するよう申し出て、実際に高杉家に返還される(東行庵側は「史料の無断持出」の見解を示している)事態となった。宗教法人東行庵の江村深教・神田英雄責任役員はは記者会見を開き、歴史研究や史料保存の場ではない、檀家を増やして経を読むのが正しい道と発表した。この騒動に絡んで、当時学芸員を務めていた一坂太郎など全職員が閉館を理由に宗教法人東行庵から解雇されている。展示史料の大半を失った東行記念館は2003年2月より一時閉館となっていた(高杉家に返還された史料227点はほどなく萩市に寄託され、同市の萩博物館で展示が行われている)。同年6月には残った遺品を元に展示を再開した(東行庵側は「仮開館」と称している)。

その後、下関市と萩市、高杉家、東行庵の4者の間で話し合いがもたれ、2008年9月、東行記念館を史料展示のために良好な環境を整えることを条件に萩市に寄託された227点のうち晋作が愛用した三味線など158点について東行記念館に戻すことで合意。下関市が建設費・運営費を負担の上で記念館を建設(改築)し、晋作の命日でもある2010年4月14日のオープンを目指していた。ところが、東行庵(宗教法人)が2010年3月9日、「遺品は高杉家から東行庵に贈与されたもので、萩市が持ち出しを一方的に進めた」と主張し、移転合意のなかった残り69点の遺品について、東行庵側が同庵への引き渡しと損害賠償を求めて山口地方裁判所に提訴[2]。これに不満を示した高杉家が158点の下関での展示に了解をしなかったため、158点以外の史料を展示する前提で開館を4月下旬に延期している[3]

裁判の影響を考慮して開館をさらに延期した後、2010年6月1日に東行記念館の2階部分を下関市立東行記念館としてオープンした[4]。「幕末維新期の下関」をテーマにした常設展示が行われている。

なお、遺品引き渡しの裁判では、2011年9月に「遺品は高杉家から東行庵に寄贈されたのではなく、寄託されたもの」と原告(東行庵)の訴えを棄却する一審判決が出されている[5]。2013年1月15日に最高裁が東行庵の上告を棄却し、判決が確定した。[6]

脚注

  1. ^ 下関市立東行記念館の設置等に関する条例
  2. ^ 晋作遺品の所有権争い 東行庵が萩市と子孫提訴”. 山口新聞 (2010年3月10日). 2012年1月13日閲覧。
  3. ^ 下関市の東行記念館 遺品158点展示見送り”. 山口新聞 (2010年4月6日). 2010年4月6日閲覧。
  4. ^ 下関市立東行記念館オープン 晋作の息吹、54点”. 山口新聞 (2010年6月2日). 2010年8月10日閲覧。
  5. ^ 高杉晋作遺品、東行庵の返還請求棄却 地裁下関”. 山口新聞 (2011年9月27日). 2012年1月13日閲覧。
  6. ^ 高杉晋作史料に関する東行庵裁判の記録”. 高杉晋作史料に関する東行庵裁判の記録. 2020年3月24日閲覧。

関連項目

外部リンク