李振武

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李振武(이진무1900年 - 1934年5月18日)は韓国の独立運動家。雅名は星霜。

生涯[編集]

平安北道定州郡出身。定州は1919年の三・一運動時に李昇薫中心に積極参加した地域で、三・一運動の頓挫を目撃して満州に渡った。

当時満洲に散開していた多くの独立運動組織が上海市大韓民国臨時政府を中心に統合して光復軍総営(総令将呉東振)が設置された。光復軍総営に加入して、武装抗日闘争に参加した。1920年に光復軍総営がアメリカ合衆国議会東洋視察団の訪問をきっかけに国内爆弾テロを計画した時、新義州方面を担当して爆弾を投擲した。

自由市惨変以後1922年に既存の団体が統合し大韓通義府が樹立されると加入した。通義府で崔碩淳の部下として活動しながら再び国内に派遣されて平北昌城郡で日本警察と銃撃戦をするなど常に危険と難しい任務の一線にあった。国内派遣の目的は軍資金募集で、富豪の家で反強制的に軍資金を徴収し、密偵を処断するなどの活動をした。

1924年に正義府が結成されると加入し、金錫河の部下として翌年に平北鉄山郡の警察駐在所を襲って、警官を射殺した。以後も何度も国内に侵入し、定州と亀城郡等地で軍資金を募集し、検問の度に、検問員を殺傷するなど数年間日本警察を苦しめた。小柄な体と神出鬼没の大胆な活動から '흑선풍'、独眼であったため'一目将軍'とも呼ばれたと言う。

1928年に国民府朝鮮革命党の設立時は国民府の軍組織朝鮮革命軍に加わったが、徐々に国民府と意見が衝突し、独自に活動するようになる。1931年に労農自慰党を組織して大将になり、労農自慰軍はすぐ在満朝鮮人革命軍に改称した。

しかし、国内にしばしば侵入して活発な活動をしたために、集中逮捕対象になり、結局1932年に金悳基に捕まって死刑宣告を受け、平壌刑務所で死刑が執行された。

1962年に建国勲章独立章が追贈された。

参考サイト[編集]