有馬晴純
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明15年(1483年) |
死没 | 永禄9年2月28日(1566年3月19日) |
別名 | 賢純・義純・義統(別名)、仙巌・南明軒(号) |
官位 | 修理大夫 |
幕府 | 室町幕府肥前守護 |
氏族 | 有馬氏 |
父母 | 父:有馬尚鑑 |
兄弟 | 晴純、西郷純久 |
妻 | 正室:大村純伊の娘 |
子 |
義貞、大村純忠、千々石直員、 松浦盛、志岐諸経 |
有馬 晴純(ありま はるずみ)は、戦国時代の肥前の戦国大名。有馬氏の当主。肥前国日之江城主。キリシタン大名の大村純忠は次男、有馬晴信は孫に当たる。天正遣欧少年使節の1人・千々石ミゲルも孫に当たる。
生涯
文明15年(1483年)、有馬尚鑑の子として生まれる。祖父の有馬貴純の代に成長した勢力をさらに拡大し、高来郡を中心に島原半島一帯を支配下に治め、貿易を独占して有馬氏の最盛期を創出した。その実力は時の将軍・足利義晴にも認められ、天文8年(1539年)、義晴から「晴」の字を賜るとともに、修理大夫に任じられている。このとき、返礼として刀や馬、黄金などを献上している。
天文15年(1546年)、龍造寺家兼の居城・水ケ江城を攻めてこれを落とすが、2ヵ月後に家兼の逆襲を受けて奪還されている。その後、晴純は次男・純忠を大村氏へ養子に出したのをはじめ、千々石氏や松浦氏などにも3男直員、4男盛を養子として送り、肥前支配の強化を図る。
しかし、天文19年(1550年)にポルトガル船が支配地に入港するようになる。これによる南蛮貿易の利益で有馬氏はさらに発展したが、同時にキリスト教も広まるようになった。だが、晴純はキリスト教を嫌い、激しく弾圧したという。
天文21年(1552年)、嫡男の有馬義貞に家督を譲って、隠居して悠々自適の生活を送った。しかし晴純の隠居頃から大友宗麟や龍造寺隆信らによる肥前侵攻が激化するようになり、永禄9年(1566年)2月28日に死去する頃には有馬氏の支配権は大きく縮小することになった。享年84。