有明吾郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。まっきんりい (会話 | 投稿記録) による 2015年12月2日 (水) 06:43個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

有明吾郎(ありあけごろう、1875年3月23日-1943年2月19日[1])は、現在の長崎県島原市出身の大相撲力士。伊勢ノ海部屋所属。最高位は東小結。5代式秀。本名は大家八五郎(旧姓山中)。165cm、123kg。有明五郎とは別人物。

来歴

1894年5月初土俵。1899年5月十両昇進、1800年代最後の関取のひとりである。1900年5月場所、7勝2敗1休で現在でいう十両優勝にあたる成績をあげる。翌1901年1月場所は番付運なく十両筆頭にとどまるが、翌5場所月に新入幕。1904年1月場所では東8枚目で7勝2敗1休、9日目に駒ヶ嶽に敗れるまで梅ヶ谷常陸山の両横綱と並走した[2]1909年小結昇進。三役は結局この一場所ですぐ平幕に落ち、その後は幕内中位をエレベーターしていたが、1913年1月場所十両落ち、翌5月場所で幕下陥落を機に引退、式秀を襲名した。板垣退助の眼前で鰻飯を7杯平らげて驚かせるほどの大食漢だった。

成績

  • 幕内23場所70勝98敗38休24分預
  • 通算28場所90勝111敗38休25分預

改名

改名歴なし [3]

出典 

  1. ^ http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19010501.htm
  2. ^ 当時幕内力士は千秋楽を休場で、9日目は実質の千秋楽。
  3. ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、ISBN 978-4764104709