日出城
日出城 (大分県) | |
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暘谷城(日出城)趾の碑 | |
別名 | 暘谷城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 |
複合型層塔式3重3階 (1602年築 非現存) |
築城主 | 木下延俊 |
築城年 | 慶長7年(1602年) |
主な城主 | 木下氏 |
廃城年 | 明治7年(1874年) |
遺構 | 移築櫓、移築門、天守台、曲輪、石垣、堀 |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯33度22分0.26秒 東経131度31分54.14秒 / 北緯33.3667389度 東経131.5317056度 |
日出城(ひじじょう)は、現在の大分県速見郡日出町にあった城郭。江戸時代は日出藩の藩庁となった。
概要
もともとは1602年(慶長7年)に日出藩の初代藩主木下延俊が義兄であった細川忠興の支援を受けて築城した。そのため小藩には似合わないほどの完成度の高い実戦的な堅固な平山城であったとされる。
別名「暘谷城」と呼ばれ、3代木下俊長が 中国の古書、『淮南子』から引用して名づけたと伝わっている。
城は、別府湾に突出した南端の台地に本丸、その東・西・北三方を囲むように二の丸、その東に三ノ丸が築かれていた梯郭式平山城で、本丸には複合型の3重3階の天守と5基の二重櫓、平櫓1基、大手門から長屋を隔てた南部に御殿が建てられていた。天守は破風のない層塔型天守で、初重がその上重の逓減を逸脱して大きく造られ、小倉城大天守や名古屋城大天守などと同じく、望楼式から層塔式の天守に移行する時期の特徴を持ったものであったと考えられている。
特産品
城の下に広がる別府湾では海中から清水が湧いており、「城下かれい」と呼ばれるマコガレイが生息している。江戸時代から珍重され、莫大な金額をかけて生きたまま将軍に献上していたほどである。現在も特産物として取引されている。
遺構
1874年(明治7年)に廃城令によって破却されたが、石垣が現存している。本丸跡は、現在、日出町立日出小学校の敷地に利用されている。
また、鬼門櫓・隅櫓・御裏門が部分的に移築されて現存しており、このうち、鬼門櫓は日出城北西側に復元工事中である。裏門櫓は2000年(平成12年)に解体保存されている。
ギャラリー
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日出城天主台跡
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日出城鬼門櫓(北東隅櫓)
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日出城北西隅櫓跡
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日出城跡の一角