新田政氏

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新田政氏
時代 鎌倉時代中期
生誕 承元2年(1208年
死没 文永8年2月18日1271年3月30日
別名 太郎
墓所 群馬県太田市 円福寺
幕府 鎌倉幕府
氏族 河内源氏義国新田氏
父母 新田政義足利義氏の娘
兄弟 政氏大舘家氏堀口家員(家貞)、谷嶋信氏経光助義
赤橋秀時の娘?
基氏細谷国氏下細谷知信(三郎智信)、
西谷重氏安養寺快義安養寺貞氏
今井惟氏足利家時
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新田 政氏(にった まさうじ)は鎌倉時代中期の武将鎌倉幕府御家人新田政義の長男。新田氏本宗家の5代当主。新田義貞曽祖父に当たる。

父政義が不祥事をおこしたため、得川義季岩松時兼に実権を握られていた。しかし、義季の子である世良田頼氏佐渡に配流されたことを復興の機会と捉えて新田氏の当主として返り咲いた。 足利義氏の外孫にあたり、祖父または伯父足利泰氏から偏諱を受けたと思われる。以後「氏」字は新田氏の通字となった。[1]

父の政義が足利義氏の娘を娶って以降、新田氏当主は代々足利氏当主を烏帽子親として擬制的親子関係を結んだと考えられ、以降の新田氏の歴代当主(政・朝)は足利氏当主の通字である「氏」を偏諱として受けている[2]。著名な子孫・当主である“新田義貞”の名前に「氏」が付かないのは、足利氏当主を継承しながらも数年で没したとされる足利高義 (尊氏の異母兄)が当主であった時期に元服して、その偏諱である「義」を与えられたからだと考える説がある[3][4]。この説において義貞の烏帽子親と推定される足利高義は、正和4年(1315年)頃に足利氏の家督を継いで(「鶴岡両界壇供僧次第」)、文保元年(1317年)に死去したとされている[5]ため、この事は義貞の元服時期を推定する根拠となる。

脚注[編集]

  1. ^ 子孫でもっとも著名な新田義貞は「氏」の字を使用していないが、新田一族の里見忠義の子として生まれ宗家の養子になったとする説がある。この学説では、実家の里見氏の通字である「義」字から義貞と名のったと推測している。
  2. ^ 田中大喜「中世前期下野足利氏論」 田中編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0 P.19。
  3. ^ 田中大喜「中世前期下野足利氏論」 田中編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0 P.43 脚注(51)
  4. ^ 田中、2011年、p.33-35。
  5. ^ 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)の高義の記事中の“高義 嫡子、号円福寺殿、文保元年六月廿四日卒”による。田中大喜編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0 、p.386(田中大喜「下野足利氏関係史料」内)にも掲載あり。

関連項目[編集]

先代
新田政義
新田氏歴代当主
次代
新田基氏