敬顕儁

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敬 顕儁(けい けんしゅん、生没年不詳)は、中国北魏末から北斉にかけての官僚軍人は孝英。本貫平陽郡泰平県

経歴

若くして義侠の風があり、豪傑と交友を結んだ。奉朝請を初任とし、羽林監となった。晋州別駕となり、泰平県開国子の爵位を受けた。531年普泰元年)、高歓が信都で起兵するのに従い、行台倉部郎中となった。に対する攻撃に参加し、土山の築造にあたって、功績により、永安県侯に封じられた。車騎将軍・度支尚書に任じられ、高歓の下で爾朱兆らを討ち、都官尚書に転じた。汾州刺史や晋州刺史を歴任し、高歓の下で宇文泰とも戦った。燕地で農民の反乱が起こると、これの鎮圧にあたった。儀同三司の位を受け、潁州刺史に任じられた。540年興和2年)、潁川郡長社県の禅静寺に七層の仏塔を建設した。後に青州刺史に転じた。548年武定6年)、侯景長江を渡ると、顕儁は斛律平の下で寿陽・宿預の30城あまりを落とし、淮南を平定した。三江口の地を攻略し、多くの城戍を築いた。北斉の河清年間に、兗州刺史として死去した。

子に敬長瑜があり、広陵郡太守となった。

伝記資料

  • 北斉書』巻26 列伝第18
  • 北史』巻55 列伝第43
  • 禅静寺刹前銘敬史君之碑(敬史君碑)