教塚古墳

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教塚古墳(きょうづかこふん)は、日本の古墳時代、5世紀または6世紀に現在の宮城県仙台市太白区泉崎1丁目にあった古墳である。早くから削られて不明な点が多いが、直径20メートル以上で、埴輪が置かれた。1985年に残存部の一部が発掘調査された。

立地・構造・遺物[編集]

教塚古墳は、仙台平野を流れる名取川の左岸(北岸)に弥生時代から水田が広がる富沢遺跡山口遺跡の中にある。周辺の北から北西にかけては丘陵の縁にそって裏町古墳など直径20から50メートル規模の古墳が、北東か南東方向には低地中には五反田古墳大野田古墳群など中小の古墳が多数築かれた。

調査時までに墳丘がかなり破壊されていたため、正確な大きさは不明だが、発見された周溝の曲がりから、直径20メートルから約40メートルと推定される[1]。高さは1メートル以上だが不明である。

1985年の発掘では、残存墳丘の中央を探ったが、主体部は見つからなかった。墳丘の外側に溝があり、発掘調査報告書はこれを周溝としたが、これを別の溝とみて周溝なしとする見方もある[2]

円筒または朝顔形の埴輪があったが、形象埴輪はなかったようである。

研究発掘史[編集]

1985年まで、教塚古墳は東西約20メートル、南北約13メートルの楕円様の形で、水田の中に孤立した塚として存在し、埴輪片が採集されていた。墳丘の上は平らで畑地として利用していた[3]。この時点で上面と周囲がかなり削られていたと考えられる[4]

1985年4月、宅地にするため古墳の周りに盛り土することで、古墳が埋もれてしまった。これを古墳の破壊も同然ととらえた仙台市教育委員会は、8月に墳丘部をまっすぐ切る形で発掘調査を実施した。円筒または朝顔形の埴輪片多数と、須恵器弥生土器の小片が1点ずつ見つかった[5]

脚注[編集]

  1. ^ 渡辺誠「教塚古墳」(『仙台平野の遺跡群 V 昭和60年度発掘調査報告書』)33頁は、検出された周湟から約40メートルと仮定すると、残存部との差が大きすぎるとしている。仙台市のサイトにある「教塚古墳」の解説では、20メートル以上とする。
  2. ^ 仙台市教育委員会文化財課「教塚古墳
  3. ^ 渡辺誠「教塚古墳」28-30頁。
  4. ^ 渡辺誠「教塚古墳」33頁。
  5. ^ 渡辺誠「教塚古墳」28-33頁。

参考文献[編集]

  • 渡辺誠「教塚古墳」、仙台市教育委員会『仙台平野の遺跡群 V 昭和60年度発掘調査報告書』、1986年3月。
  • 仙台市教育委員会文化財課のサイト「仙台市の遺跡」内の「教塚古墳」。2009年2月閲覧。

外部リンク[編集]