成蟜の乱
成蟜の乱 | |
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戦争:春秋戦国時代 | |
年月日:紀元前239年(秦王政8年) | |
場所:屯留 | |
結果:反乱が鎮圧 | |
交戦勢力 | |
秦(反乱軍) | 秦(反乱鎮圧軍) |
指導者・指揮官 | |
成蟜 | 蒲鶮 |
戦力 | |
不明 | 不明 |
成蟜の乱(せいきょうのらん)は、紀元前239年(秦王政8年)に発生した秦王政(後の始皇帝)の弟の成蟜による反乱。『史記』秦始皇本紀に記載があるが、解釈がいくつかあり、真実はよくわかっていない。
成蟜の乱
※『史記』秦始皇本紀の記載の解釈は数説あり、あくまでもこの記載は一説に過ぎない。
紀元前239年(秦王政8年)、王弟の長安君成蟜が趙を撃った[1]。しかし、屯留で反乱した[1]。反乱討伐軍には将軍の壁が派遣された[2]。乱の詳細は不明である[2]。反乱鎮圧軍の将軍の壁は死んだとされている[1]。成蟜は敗死し、軍吏は皆斬死した[1]。屯留の民は臨洮に遷された[1]。屯留・蒲鶮も反乱に加担したが、鎮圧された[2]。その亡骸は辱めたとある[2][1]。