応天門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Aotake (会話 | 投稿記録) による 2014年12月24日 (水) 03:30個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:平安京の門を除去; Category:平安宮の門を追加 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

応天門(おうてんもん、應天門、应天门)は、いくつかの宮城に作られた門の名である。

洛陽

同じ様式の故宮午門

洛陽では、皇城内部にあり、宮城の南の正門だった(宮城は皇城の内側にある)。

605年に建造[1]。当初は則天門紫微宮門と呼ばれていたが、王世充により、順天門と改められた。しかしこの順天門は、李世民の攻城により、ひとたび焼失した。

代初期に再建され、則天門と改められた。その後、睿宗の代に、母武則天の「則」字を避諱して、現在の名の応天門となった。ただし、晩唐五代に一時、五鳳楼と改名されていた。

左右3回ずつ折れ曲がる「双向三出闕」という様式である。これはのちの紫禁城故宮午門と同じであり、故宮午門はこれに似せて作られたとも言う[1]。国事や外交の式典に使われた。

1959年、中州渠の開削により、ほとんどが失われた。1992年国家文物局が一部を修復した。

平城京

平安京

平安神宮の応天門(平安京の応天門の縮小レプリカ)

大内裏の内側にあった門で、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院(八省院)の正門である。朱雀門のすぐ北にあり、朱雀門・会昌門と並ぶ重要な門であった。場所は2012年まで出世稲荷神社があった所付近(京都市上京区中京区の南西の境界付近)とされる(旧跡を示す碑などは存在しない)[1]

扁額空海の筆によるものと言われている。「弘法にも筆の誤り」ということわざは、空海(弘法大師)が応天門の扁額を書いた際に「應」の一画目の点を書き忘れてしまった(まだれがんだれにしてしまった)が、空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き足したという伝承に由来する。

866年貞観8年)、応天門の変放火されたことで有名であるが、その他にもたびたび失われ、1177年治承元年)の大火で失われて以降、再建されなくなった。

平安神宮の応天門は、平安京の応天門を5/8のスケールで模したものである。

出典