後藤晃吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Lifeonthetable (会話 | 投稿記録) による 2021年12月2日 (木) 13:25個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

後藤 晃吾
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県島田市
生年月日 1940年
身長
体重
182 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

後藤 晃吾(ごとう こうご、1940年 - )は、静岡県島田市出身の元アマチュア野球選手(投手)。

来歴・人物

掛川西高では2年生の時、エースとして1957年夏の甲子園予選山静大会決勝に進み清水東高と対戦。後に大学の1年先輩となる漆畑勝久早大に進む鈴木悳夫らに打ち崩され大敗、甲子園出場を逸する。

明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは、同期の八木孝と投の二本柱を組み1961年春季リーグで優勝、ベストナイン(投手)にも選出される[1]。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日大に敗れた。リーグ通算43試合13勝10敗、防御率1.87、96奪三振。他の大学同期では一枝修平辻佳紀別部捷夫、松本雄作(4年中退、国鉄)がプロ入りしている。

卒業後は社会人野球八幡製鐵に進み、都市対抗野球大会に10年連続出場。1968年都市対抗では3勝を挙げ準決勝に進む。富士製鐵広畑岡田光雄松下電器から補強)と投げ合うが完封を喫した[2]。同大会の小野賞を獲得。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[3]との日米親善野球試合に出場した。

引退後は新日本製鐵八幡監督となる。1974年都市対抗では、エース萩野友康の好投もあって準優勝[2]。同年は第1回社会人野球日本選手権にも出場を果たす。

脚注

  1. ^ 東京六大学野球連盟(記録)」(一財)東京六大学野球連盟
  2. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである

関連項目