廉隅

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廉隅
『中華民国維新政府概史』(1940年)
プロフィール
出生: 1886年[1]
死去: 不詳
出身地: 江蘇省常州府無錫県
職業: 外交官・政治家・司法官・弁護士
各種表記
繁体字 廉隅
簡体字 廉隅
拼音 Lián Yú
ラテン字 Lien Yü
和名表記: れん ぐう
発音転記: リエン ユー
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廉 隅(れん ぐう)は中華民国の外交官・政治家・司法官・弁護士。中華民国維新政府汪兆銘政権(南京国民政府)の要人。別号は励清[2]

事跡

日本に留学し、京都帝国大学法学士の称号を取得した。帰国後は北京政府でまず外交部主事に就任する[3]

以後、1913年民国元年)1月、浙江省高等審判庁庁長に任命され、11月、辞任する[4]1914年(民国3年)3月、直隷省高等審判庁庁長に任命され、1920年(民国9年)9月までつとめた[5]。まもなく署理河南省高等審判庁庁長に異動したが、翌月に早くも辞任した[6]。後に天津市で弁護士を開業する[3]

中華民国維新政府成立後の1938年(民国27年)4月、廉隅はその外交部次長に任じられたが、6月、いったん辞任している。翌年2月、外交部長の陳籙国民政府の特務に暗殺されると、4月から8月まで廉隅が署理部長をつとめた。次いで署理実業部長に転じる[7]

1940年(民国29年)3月、維新政府が汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に合流すると、いったんは立法委員に任ぜられる[3]。しかし同年末、廉隅は初代駐満州国大使に任命された。1943年(民国32年)2月まで、この地位をつとめている(後任は陳済成)。いったん大使在部弁事となり、1945年(民国34年)5月に汪兆銘政権最後の駐日大使に任ぜられた[8]

日本敗北、汪兆銘政権崩壊以後は、廉隅は行方不明となっている。

  1. ^ 東京朝日新聞』昭和14年2月25日、2面より。
  2. ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』1424頁。
  3. ^ a b c 『朝日新聞』(東京)昭和16年1月20日、1面。
  4. ^ 劉ほか編276頁。
  5. ^ 同上190-193頁。
  6. ^ 同上233頁。
  7. ^ 同上1026、1028頁。
  8. ^ 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』1919頁。

参考文献

  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  中華民国維新政府
先代
陳籙
外交部長(署理)
1939年4月 - 8月
次代
夏奇峯
先代
王子恵
実業部長(署理)
1939年8月 - 1940年3月
次代
(廃止)