広橋頼資

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広橋頼資
時代 鎌倉時代前期
生誕 寿永元年(1182年
死没 嘉禎2年2月30日1236年4月7日
別名 賴資(正字)
官位 従二位、権中納言
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家日野流広橋家
父母 父:藤原兼光
母:法印院慶もしくは院尚の娘
兄弟 日野資実長親頼資宣実
正室:源兼資の娘
経光、頼円、世尊寺経朝、頼誉
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広橋 頼資(ひろはし よりすけ)は、鎌倉時代前期の公卿。権中納言藤原兼光の五男。民部藤原光範の後を継いだとされる。広橋家の祖。四辻・勘解由小路とも称する。

儒学に明るく、近衛家に近い立場を取った。元仁元年12月17日(1225年1月27日)に参議に任ぜられ、翌年に権中納言に昇る。嘉禎元年11月7日(1235年12月18日)に出家して翌年に薨去した。熊野信仰に厚く、承元4年(1210年)・建保4年(1216年)・寛喜元年(1229年)の参詣などは日記頼資卿記』に詳細に残されているほか、公私合わせて20回以上の熊野参詣が知られている。

系譜

先代
  -  
広橋家当主
初代
次代
広橋経光