広橋綱光

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広橋 綱光(ひろはし つなみつ、永享3年6月13日1431年7月22日) - 文明9年2月14日1477年3月28日))は、日本公卿広橋宣光の子。母は神祇伯資忠王の娘・豊子女王。子に広橋兼顕。法名は秀寂、法号は引接院。贈内大臣

文安2年(1445年)に元服して従五位下治部少輔となる。文安5年(1448年)に蔵人となり、宝徳2年(1450年)には右少弁左少弁権右中弁と転じ、享徳元年(1452年)に右中弁、翌年には左中弁蔵人頭右大弁と転じて享徳3年(1454年)に参議康正元年(1455年)に左大弁に転じ、翌年には権中納言右兵衛督検非違使別当長禄3年(1459年)以後、家職であった武家伝奏を務める。寛正6年(1465年)に従二位、文明2年(1470年)に権大納言、文明5年(1473年)に正二位。文明8年(1476年)には南都伝奏を兼務。

武家伝奏のみならず、後土御門後柏原両天皇の乳母(守子、大典侍)や二条政嗣室を娘に持つなど、宮廷にも強い人脈を有し、死の間際には摂関家の左右両大臣が有していなかった従一位に叙されて准大臣宣下を受けている。

先代
広橋宣光
広橋家当主
第12代
次代
広橋兼顕