工藤紀夫

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工藤 紀夫(くどう のりお、昭和15年(1940年8月2日 - )は、囲碁棋士青森県弘前市出身、日本棋院東京本院所属、前田陳爾門下、九段。天元王座位獲得、碁聖挑戦など。若い頃は力碁で「眠狂四郎」のニックネームがあったが、後年粘り強く冷静な棋風へと変化した。2006年現在日本棋院理事を務める。

経歴

1952年に日本棋院院生となり、1955年入段、1976年九段。大竹英雄林海峰と並ぶ素材と期待されながらなかなかタイトル戦線に登場できなかったが、1977年趙治勲を破って初タイトルとなる王座を獲得。1997年柳時熏を降して57歳で天元位を獲得、20年ぶりにタイトルホルダーに返り咲いた。翌年小林光一に敗れてタイトルを失うが、翌々年再び挑戦権を得てリターンマッチに挑むなど、中高年の星として話題を集めた。

棋士間での人望も厚く、2002年に日本棋院常務理事、後に副理事長・理事長代行を務め、加藤正夫らとともに棋院改革に当たった。また地元青森県で「工藤紀夫杯争奪囲碁大会」を開催するなど、アマチュアへの普及にも熱心なことで知られる。囲碁の他、将棋はアマチュア五段の腕前を持つ。

タイトル獲得歴

  •  王座1期(1977年)
  •  天元1期(1997年)

その他の棋歴

新手


村正の妖刀」に対し、白1へと大々ゲイマに打つ手を開発している。妖刀定石の有力な変化とされている。

工藤流

黒番で1のから3,5のシマリを打ち、白6のワリウチに黒7から9と構える布石を一時期多用し、「工藤流」と呼ばれた。

著作

  • 『定石の選びかた 新中級シリーズ 』日本棋院 1980年
  • 『工藤紀夫・高木祥一』(現代囲碁大系32)1982年
  • 『ひらめきの碁学 』独楽書房 1984年(ユージン伝 2003年)
  • 『最強の詰碁 初段・二段・三段―三手の詰碁から古典詰碁まで』成美堂 1998年
  • 『五段へ!四つの実践 日本棋道協会の有段者特訓塾7 』フローラル出版 2000年
  • 『囲碁鉄人指南 中盤戦の定石―攻めと守りこの一手 (囲碁鉄人指南) 』日本棋院 2001年
  • 『二子強くなるヨセ学 (日本棋道協会の有段者特訓塾) 』フローラル出版 2002年
  • 『工藤紀夫—打碁鑑賞シリーズ<3>』日本棋院 2003年
  • 『やさしい定石 (マイコミ囲碁文庫シリーズ) 』2007年
  • 『置碁三、四、五子局―白の狙いと黒の対策』日本棋院 2010年
  • 『やさしい死活 詳解85型+211問 (マイコミ囲碁文庫シリーズ) 』2010年

エピソード

  • 若い頃の力碁は有名で、1955年影山利郎との対戦ではねじり合いから次々と黒石を打ち上げ、アゲハマ合計37個という歴史的な石取りを記録している。
  • 1997年の天元戦5番勝負でコウの石をすぐに取り返すという反則を犯し、反則負けを喫した。しかしこのことに動ぜず戦い、33歳年下の柳時熏を3-1で降してタイトルを奪取した。
  • 競輪ファンとして知られ、徳間書店から1986年に発刊された、阿佐田哲也編、『競輪痛快丸かじり』[1]にも登場した。

外部リンク

脚注