島川文八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Yhfhwajd (会話 | 投稿記録) による 2016年3月13日 (日) 17:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎栄典)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

島川文八郎

島川 文八郎(しまかわ ぶんはちろう、元治元年3月10日1864年4月15日) - 大正10年(1921年7月15日)は、日本陸軍軍人陸軍技術審査部長・陸軍技術本部長・陸軍省兵器局長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級に至る。

人物・来歴

津藩士・島川宗政の八男として生まれ、1879年(明治12年)4月、陸軍幼年学校に入校する。1882年(明治15年)8月、陸軍士官学校生徒となり、1885年(明治18年)6月には陸軍砲兵少尉に任官・山砲兵第3大隊附を命ぜられた。士官生徒第7期の同期には宇都宮太郎大将や柴勝三郎竹下平作中将らがいる。

1887年(明治20年)7月、士官学校を卒業。この時、中尉に進級し、砲兵第1連隊附に移る。1888年(明治21年)1月からは陸軍砲兵射的学校教官を務め、1890年(明治23年)11月の大尉進級を経て1891年(明治24年)3月にはベルギーへと留学した。1892年(明治25年)12月からはフランスに渡り、引き続き留学をする。

1893年(明治26年)12月に帰国し、1894年(明治27年)3月、東京砲兵工廠板橋火薬製造所長に就任した。1895年(明治28年)4月には少佐に進級し、1898年(明治31年)7月からヨーロッパに派遣された。1899年(明治32年)5月に再び帰国し、同年12月、中佐に進級。1903年(明治36年)5月には大佐へと進み、野砲兵第3連隊長に就任した。

1904年(明治37年)4月、日露戦争に出征。戦役から戻った島川は1905年(明治38年)5月、陸軍技術審査部審査官を補され、先の戦功から1906年(明治39年)4月1日、功三級金鵄勲章を受章する。1907年(明治40年)11月、陸軍省軍務局砲兵課長に就任し、1908年(明治41年)12月21日には新設された陸軍省兵器局の局長心得を命ぜられる。

1909年(明治42年)1月28日、陸軍少将進級と共に正式な局長に進む。1913年(大正2年)7月3日、陸軍技術審査部長へと進み、1914年(大正3年)5月には陸軍中将に進級する。1919年(大正8年)4月、陸軍技術本部長を拝命し、技術将校の頂点に輝いた。1919年(大正8年)11月、陸軍大将進級と共に待命となり、1920年(大正9年)3月には予備役となった。同年11月1日勲一等旭日大綬章受章。1921年(大正10年)7月15日逝去。

栄典

外国勲章等佩用允許

親族

  • 三男 三村征雄(数学者)
  • 六男 島川治雄(陸軍中佐)

脚注

  1. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  2. ^ 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
  3. ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
  4. ^ 『官報』第7036号・号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
  5. ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。
  6. ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
  7. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  8. ^ 『官報』第5488号「叙任及辞令」1901年10月16日。
  9. ^ 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目