山崎定勝

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山崎 定勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 右京進/右京之進(通称)、家勝
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 近江山崎氏
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山崎 定勝(やまざき さだかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名

経歴

山崎家盛(または山崎定盛)の子とされるが[1]、諸系図には『山崎家譜』を含めて名前が見られない。年齢的には子と考えるには無理があり、兄弟または従兄弟か。豊臣秀吉馬廻[1]

文禄元年(1592年)の文禄の役では、御後備衆のうちで250名を率いて[2]肥前名護屋城に駐屯し、本丸裏表御門番衆に列した[3]。文禄3年(1594年)5月23日、明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、御配膳衆[5]の1人として侍した[4]

同年、伏見城の普請を分担[1]。加増で1万石となり、伊勢国八知と竹原に所領を与えられた[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伊勢口の防衛、大坂福島口の警固に当たり、8月には毛利秀元長束正家らとともに安濃津城攻めに参加したが、関ヶ原本戦が敗北に終わると逃亡[1]改易された。

後に豊臣秀頼に仕え、慶長9年(1604年)8月の豊国臨時祭に関与しているが、大坂の陣の頃に散見しないのでそれ以前に没したと思われる。

脚注

  1. ^ a b c d e 高柳 & 松平 1981, p. 260.
  2. ^ 吉村 1934, p. 128.
  3. ^ 吉村 1934, p. 141.
  4. ^ a b 吉村 1934, p. 173.
  5. ^ 毛利秀秋(または毛利秀頼)、京極高次中江直澄と定勝の4人[4]

参考文献