小島健輔

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こじま けんすけ

小島 健輔
生誕 1950年(73 - 74歳)
出身校 慶應義塾大学
職業 コンサルタント
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小島 健輔(こじま けんすけ、1950年 - )は、日本ファッションビジネスコンサルタントである。小島ファッションマーケティング代表取締役。

1972年昭和47年)、慶応義塾大学商学部卒業[1]。大学在学中より、当時の婦人服専門店大手・鈴屋にて働き、大学卒業後にはそのまま同社の契約社員となった[2]。当時、鈴屋には、後のアパレル大手、ファイブフォックスの創業社長となる上田稔夫がおり、小島は上田のアシスタントとして働いた[2]

鈴屋に入社して2年目、鈴屋が計画した本社ビルを兼ねた複合ビル、青山ベルコモンズ(東京・青山)の建設に対して、「過大投資であり、先にやるべきことは他にある」と反対、決定を阻止しようと役員会の会議場に乱入して懲戒免職となった[1]。退職後には大阪のコンサルティング会社に勤めるも半年で辞め、独立して輸入ブランドの買い付け業を始めた[2]。これは後のセレクトバイヤーの走りで、小島はパリミラノを訪れて商品を仕入れて日本国内の専門店に販売したものの、上手く行かなかった[2]。これについて小島は、「時期尚早だった」としている[2]

その後の1981年(昭和56年)、小島は小島ファッションマーケティングを設立して社長に就任、ファッション分野の流通戦略を得意とするコンサルタント会社として事業を成功させた。

コンサルティングおよびセミナーなどの論調方向性は、感性に依存しがちなファッション業界にあって、客観的なデータに基づくマネジメントを提唱し、現場の技術革新を起点とした経営戦略を訴え続けてきたビジネス・エンジニアである。現在はファッションだけにとらわれず流通全体に向けてのコンサルティングが増えている。

著作

  • 『ブランディングへのマーチャンダイジング』(商業界)
  • 『SPAの成功戦略』(商業界)
  • 『ファッションビジネスは顧客最適へ動く』(こう書房)
  • 『開国デフレ 流通大恐慌』(東洋経済新報社)
  • 『ユニクロ症候群』(東洋経済新報社)

脚注

  1. ^ a b 処世術捨てた革命児、組織頼らず自ら仕掛け(現場報告新企業人) 『日経産業新聞』 昭和61年2月3日
  2. ^ a b c d e 「小島ファッションマーケティング小島健輔氏―販売技術開発(企業人大いに語る)」 『日経流通新聞』 平成9年4月5日

外部リンク