小代重康

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小代 重康
時代 鎌倉時代中期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 重泰、右衛門次郎
戒名 宗心
幕府 鎌倉幕府 肥後野原庄地頭
氏族 児玉党小代氏
父母 小代重俊、多胡親時の娘[1]
兄弟 重康増永政平荒尾泰経一分資重[1]
伊重、中分重行、重高、蔵満伊高[2]
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小代 重康(しょうだい しげやす)は、鎌倉時代中期の武士。名は重泰とも書く。

略歴

武蔵国入間郡小代の武士・小代重俊の子。宝治2年(1247年宝治合戦で武功を立て、戦死した毛利氏旧領の肥後国玉名郡野原庄(現・熊本県荒尾市)の地頭職が恩賞として小代氏に与えられた[3]文永8年(1271年元寇への対応のため鎌倉幕府より命じられ、建治元年(1275年)までに野原庄へと下向して以後子孫まで土着した[4]

脚注

出典

  1. ^ a b 『新撰事蹟通考』 1971, p. 353.
  2. ^ 『新撰事蹟通考』 1971, p. 354.
  3. ^ 松本 1985, § 野原庄.
  4. ^ 小野 1993, § 小代氏館跡.

参考文献

  • 小野文雄 編『埼玉県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1993年。ISBN 9784582490114 
  • 松本雅明 編『熊本県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1985年。ISBN 9784582910520 
  • 武藤厳男; 宇野東風; 古城貞吉 編「新撰事蹟通考」『肥後文献叢書』 3巻、歴史図書社、1971年。