寛永御前試合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。119.243.164.169 (会話) による 2014年7月24日 (木) 09:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎他の文献の伝える試合結果)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

寛永御前試合(かんえいごぜんじあい)は、江戸時代寛永9年(1632年)に行なわれたと言われる御前試合である。 実際に行われたかは、疑問が多々残る。

寛永9年(1632年)9月22日、江戸城内武術御撰広芝(吹上滝見の御茶屋辺であるという)御稽古場(間口5間、奥行10間)において、将軍徳川家光の御前で行われた。寛永15年説もある。

上面は大久保彦左衛門、左の方柳生但馬守、右の方小野次郎右衛門などが審判し、手に持つ白采を上下して勝敗を決した。[要出典]

試合結果

陸軍歴史』による試合結果。文献によって伝える内容が著しく異なる「寛永御前試合」の中ではもっとも資料的価値が高い。と言われているが、200年後に作られたと言う事を忘れてはいけない。[要出典] ○が勝ち、×が負け。

他の文献の伝える試合結果

ただし歴史学的資料価値低い文献が多く、ほとんど信用できない[1]

脚注

  1. ^ 一例として、穴沢主殿助こと穴澤盛秀寛永期以前の大坂の陣において討死にしており、この時代に試合をする事自体が不可能である(このため、名立たる達人同士が対決したらどういう結果になるのかといった予測を記述したものが混在したものとみられる)。

外部リンク

http://www.geocities.jp/sinmyouki/s108.html 日本武術神妙記・・剣豪武術家逸話集・・