寛水流

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寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年2月27日空手家・水谷征夫とプロレスラーアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。

初代会長は水谷征夫、名誉会長はアントニオ猪木。二代目会長は世古典代、三代目会長は森山幸則

現在は「NPO法人 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として、東海地方を中心に活動している。

発足の経緯

『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が『ルールのない命をかけた戦い』を申しいれた。その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。

交渉の中で、水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また、猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。この話は当時『昭和の巌流島』とマスコミに取り上げられた。

その渦中で新日本プロレスの新間寿はこの試合を中止するように二人に嘆願する。『戦国時代ならいざ知らず、命がけの果し合いだけは中止してください。勝ち負けは時の運、猪木が死ねばプロレス界の損失、水谷さんが死ねば空手界の損失。どちらか勝った方もまともな体ではいられません。どうか新間に免じて格闘技界発展のために手を取り合ってください。』二人の男は考えた結果、試合を取りやめる決断をする。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。

現状

2012年5月現在、成道会、拳友会、竜成会、克己会、天心会の5つの会派とオーストラリアに支部がある。

毎年秋に、NPO法人世界寛水流空手道主催のオープン選手権を、二代目会長・世古典代の生誕地である三重県津市で開催しており、オープン選手権には60流派、約800名の選手が参加し、東海地方で最も大きな空手大会の1つとなっている。また、大会には名誉会長であるアントニオ猪木や寛水流出身のプロレスラー・後藤達俊などがゲストとして参加し、開会式のアントニオ猪木による「1、2、3、ダァー」は恒例行事となっている。

外部リンク