コンテンツにスキップ

斡離不

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
完顔宗望から転送)
斡離不(オリブ)
続柄 太祖阿骨打次男

全名 完顔宗望
称号 魏王、晋王、宋王
出生 不詳
死去 天会5年6月21日1127年7月31日
上京会寧府
埋葬 上京会寧府
配偶者 側室:耶律余里衍
  側室:趙福金
  側室:張氏
子女 男子:完顔斉、完顔京、完顔文
女子:昭寧公主
父親 太祖阿骨打
母親 欽憲皇后 紇石烈氏
テンプレートを表示

斡離不(オリブ)は、の皇族。女真名は斡魯補(オルブ)とも。漢名は宗望。初代皇帝の太祖阿骨打(アクダ)の次男。金の名将として知られる。

経歴

[編集]

妃の紇石烈氏(後の欽憲太皇太后)の長男として生まれた。初め、父帝の征戦に従い、常に側近にあった。天輔6年(1122年)、兵を率いて天祚帝(耶律延禧)を追い、軍功を挙げた。父帝に従って燕京を平定し、副都統となった。天会元年(1123年)、千人の兵をもって奇襲し、天祚帝の大軍を大いに破った。

太祖阿骨打は1123年に死去するが、その弟の太宗呉乞買(ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した[1][2][3]。ところが、は金朝との間で結んだ「海上の盟」(1120年)を守らず、背信行為が露見した[1]。金と宋は対立するようになった(宋金戦争)。

太宗は斡離不らに宋への侵攻を命じ、天会3年(1125年)10月、斡離不は河北の平州より進発して北宋を攻め、白河にいたり、12月に郭薬師の軍を白河で破った。撒改(サガイ)の子の粘没喝(ネメガ、宗翰)は山西方面から宋に侵入し、両軍は華北一帯を席巻して[4]、天会4年(1126年)正月には北宋の都の開封を包囲した[1][3][5]。8月に斡離不は右副元帥となり、再び宋を攻めた。12月に左副元帥の粘没喝とともに開封を包囲、宋に対して和平に傾き、領土・賠償金・和親政策(自身や他の皇族に徽宗の帝姫たちを妾妻として差し出させる)をもって講和を認めようとしたが、他の将帥の反対のため交渉に失敗した。

凱旋した後、天会5年6月21日1127年7月31日)に傷寒で急死した[注釈 1]上京に葬された。天会13年(1135年)、魏王を追贈された。皇統3年(1143年)、熙宗により晋王を再追贈された。大定3年(1163年)、宋王を再追贈され、「桓粛」とされた。

宗室

[編集]

妻妾

[編集]

子女

[編集]
  • 男子:完顔斉、完顔京、完顔文
  • 女子:昭寧公主 什古

伝記資料

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 死因は、熱射病ともいわれている。

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 三上次男神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。