宋彬彬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。John Hakater (会話 | 投稿記録) による 2022年10月5日 (水) 05:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

宋彬彬
毛沢東の左腕に「紅衛兵」と書かれた腕章を巻く宋彬彬。

宋 彬彬(そう ひんひん、ソン・ビンビン、拼音: Sòng Bīnbīn1949年[1] - )は、文化大革命(文革)期の中華人民共和国において紅衛兵の最高幹部を務めた女性。別名は宋 要武(そう ようぶ、ソン・ヤオウー、拼音: Sòng Yāowŭ[注釈 1])。高校時代に、他の生徒とともに自分の学校の教頭を死亡するまで木の棒で殴打したことで知られている。

1966年8月18日、天安門広場で紅衛兵に接見する毛沢東。「紅衛兵」と書かれた左腕の腕章は宋彬彬が巻いたものである。

宋彬彬は中華人民共和国の建国を指導した八大元老の一人である宋任窮の娘として生まれ、1966年には在籍していた北京の女学校にて急進的な紅衛兵らの最高幹部となっていた。紅衛兵は、毛沢東への献身を示すために中国の制度的枠組みを打倒すべく行動した[2]。宋は北京師範大学附属女子中学(現・北京師範大学附属実験中学中国語版)で造反を起こした。新聞の報道によれば、彼女は1966年8月1日に教頭の卞仲耘中国語版を死亡するまで木の棒で殴打した[3]。卞は文革で最初に殺害された教員となり、彼女の殺害は紅衛兵によるさらなる殺人を呼び、ついには天安門広場に百万人超の紅衛兵が詰めかける中、宋が毛沢東の腕に赤い腕章を巻くという有名な出来事が起こった。その光景は撮影されて「赤い八月」を引き起こす有名な写真となった。

文革終了後、宋はアメリカ合衆国へ留学してマサチューセッツ工科大学で博士号を取得し、マサチューセッツ州環境保護局英語版での勤務を経て、2003年に中国へ帰国した[1]。2014年、彼女は文革期に紅衛兵として行なった活動について謝罪している[2][4][5]

脚注

注釈

  1. ^ ただし宋要武という名前は彼女の名前を知った毛沢東が(「上品な」意味を含む「彬」だけでなく)武も必要だ。」と言ったことをメディアが掲載したことに由来し、本人が使用したことはない。

関連項目