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大隆寺 (宇和島市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大隆寺
本堂
所在地 愛媛県宇和島市宇和津町1-3-1
位置 北緯33度12分54.79秒 東経132度34分34.65秒 / 北緯33.2152194度 東経132.5762917度 / 33.2152194; 132.5762917座標: 北緯33度12分54.79秒 東経132度34分34.65秒 / 北緯33.2152194度 東経132.5762917度 / 33.2152194; 132.5762917
山号 金剛山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建年 慶長13年(1608年)頃
開基 富田信高
文化財 富田知信・信高画像(県文化財)
伊達秀宗夫人墓(県史跡)
晦巖日記(市文化財)
宇和島藩主伊達家墓所・山家公頼墓(市史跡)
金剛山庭園(市名勝)
法人番号 2500005006205 ウィキデータを編集
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大隆寺(だいりゅうじ)は、愛媛県宇和島市に所在する寺院である。山号は金剛山。宗派は臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来等覚寺と並んで宇和島藩伊達家菩提寺である。

概要

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宇和島市街地の南東部に位置する。慶長13年(1608年)頃、伊達家以前の宇和島藩主富田信高が亡父知信の菩提を弔うために建立した。建立当寺は金剛山正眼院(しょうげんいん)と呼ばれていた。

伊達氏入府後は等覚寺と並び伊達家の菩提寺となった。5代藩主伊達村候が自らの墓所と定めた。寺院名も村候の法号から大隆寺と改められた。宇和島藩主の菩提寺は母親や藩主の法号からその名がついているため、領民には寺院を山号で呼ばせた。

2013年3月18日に同市教育委員会が明治時代に当時の様子を俯瞰した銅版画の原画を発見、タイトルは「金剛山大隆寺之景[1]」で戦災で消失した霊殿の山門や祈願などで行う参籠堂のほか本堂と御霊屋をつなぐ渡り廊下が「設計中」として刻んで残っている[2]

伊達家墓所

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墓所に葬られている藩主および主な一族、家臣は以下の通り。

ほか

文化財

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国の重要文化財
  • 絹本著色豊臣秀吉画像
豊臣秀吉の側近であった富田知信が秀吉没後に描かせ当寺に伝えられた。幕末に当寺から伊達家に献上され、現在は財団法人宇和島伊達文化保存会の所蔵品となっている。昭和10年(1935年)4月10日指定。
愛媛県指定有形文化財
  • 富田知信画像一幅、富田信高画像一幅
初代宇和島藩主となった富田信高と父の知信の肖像画。富田家の旧臣で富田家改易後に伊達家に仕えた梶田一正が旧主を偲んで描かせ、当寺に奉納し弔った。知信は法体、信高は衣冠姿で描かれている。現在は宇和島市立伊達博物館に寄託されている。昭和29年(1954年)11月24日指定。
愛媛県指定文化財(記念物・史跡)
  • 伊達秀宗夫人の墓
秀宗正室の亀姫の墓。等覚寺にある伊達秀宗の墓と同時に指定された。昭和40年(1965年)12月24日指定[3]
宇和島市指定有形文化財
  • 晦巖日記
当寺15代住職の晦巖(まいがん)は江戸時代後期の天保3年(1832年)から没年の明治5年(1872年)まで日記を35冊書いた。そのうち現存する文久元年(1861年)までの26冊を所蔵している。晦巖は8代藩主伊達宗城の信任が厚く藩命により各地に出向いた。日常の見聞、人事応接の記録が記されており幕末の宇和島藩の動静を知る貴重な資料である。昭和38年(1963年)2月11日指定。
宇和島市指定記念物
(史跡)
  • 宇和島藩主伊達家墓所
等覚寺にある墓所と共に昭和36年(1961年)11月3日に指定。
  • 山家公頼の墓
江戸時代初期の和霊騒動により自邸を襲撃され落命した山家公頼の墓。公頼を慕う人々により当寺の西方約60mの場所に密かに葬られた。後に藩主も冤罪を認め廟が築かれた。墓は和霊様と呼ばれている。昭和38年(1963年)2月11日指定。
(名勝)
  • 金剛山庭園
江戸時代後期の寛政年間(1789年 - 1800年)に築庭されたと推定される。幕末に一部改築がなされたと寺院の記録にある。池泉観賞式庭園である。昭和38年(1963年)2月11日指定。

脚注

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  1. ^ 伊達博通信
  2. ^ 愛媛新聞(2013年3月19日付、3面)
  3. ^ 宇和島市ホームページ(県指定史跡・伊達宗城及び夫人の墓)

参考文献

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  • 愛媛県高等学校教育研究会社会科部会/編 『新版 愛媛県の歴史散歩』 山川出版社/刊 1991年 204-205ページ
  • 現地説明板 宇和島市教育委員会・宇和島市観光協会/設置

外部リンク

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