大部屋栖野古

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大部屋栖野古(おおとも の やすのこ)は、『日本霊異記』にみえる古墳時代の豪族。紀伊国名草郡宇治(現和歌山市)の宇治大伴連の祖。屋栖古(やすこ)とも。

概要

『日本霊異記』に見える伝承は以下の通りである。 敏達天皇の御代、和泉の海中から楽器の音が聞こえ、その音は、ある時は笛・箏・箜篌などを合奏している音のようであり、またある時は雷が鳴り轟く音のようであった。昼は鳴り、夜は輝き、その音や光は東に流れて行った。紀伊の大部屋栖野古はこの噂を聞いて、敏達天皇に申し上げたところ、天皇は黙ったままで、信じなかった。そこで今度は皇后に申し上げたところ、皇后は屋栖古に「そなたが行って調べなさい」と命じたため、屋栖古が行ってみると、噂に聞いた通りに音や光があり、そこには落雷に撃たれた楠が流れ着いていた。屋栖古は都に帰って、「高脚の浜に楠が流れ着いていました。あの楠で仏像を造ることをお許しください」と申し上げ、皇后から許可を得た。屋栖古は喜び、早速蘇我馬子に皇后の詔を伝え、池辺直氷田を招いて3体の仏像を造った。その像は、豊浦寺に安置し、多くの人々が参詣したが、物部守屋が皇后に「仏像などを都の近くに置いてはなりません。遠い所に捨てるべきです」と進言したため、皇后は「早くあの仏像を隠しなさい」と屋栖古に伝え、屋栖古は氷田直に仏像を稲わらの中に隠させた。用明天皇の御代に守屋大連を誅伐された後、屋栖古はこの仏像を取り出し、勅命によって大和国吉野郡の窃寺に安置した。その仏像は吉野郡比蘇寺の放光阿弥陀之尊像であると伝えられた[1]

推古天皇13年(605年)5月5日には大信の位を贈られた[2]。また、播磨国揖保郡の水田司や僧都になったという[3]

孝徳天皇6年(650年)9月に大花上を贈られ、難波の地で90歳で亡くなったという[2]

考証

播磨国風土記』には、「昔、呉(くれ、国名の呉(ご)ではない)の村主が韓国(からくに)から渡来して、紀伊国名草郡大田村(現和歌山市太田)にやってきて、その後に播磨国揖保郡大田村(この大田の地名は名草郡の大田が由来)に移住した」とあり、屋栖古が揖保郡の水田司となった際に、名草郡の渡来系技術者集団を移住させたとする説が存在する[4]

大部屋栖古の説話は、8世紀頃に紀伊国名草郡の宇治大伴連氏が、改姓あるいは郡司に自氏の系図の承認を求めた際に記された「本記」を元に書かれた記事であると考えられる[2]

脚注

注釈

出典