多治見空襲
多治見駅列車空襲事件(たじみえきれっしゃくうしゅうじけん)は、1945年(昭和20年)7月15日に岐阜県多治見市の国鉄(現在のJR東海)太多線多治見駅で発生したアメリカ軍戦闘機による列車・駅周辺への機銃掃射により多数の死傷者が出た事件。
地元では「多治見空襲」とも呼ばれている。
事件の概略
7月15日の昼間、渥美半島付近の海上より多治見市街地上空に飛来して攻撃目標を探していたのか上空を旋回していたアメリカ軍P-513機が、美濃太田方面より多治見到着間際の列車に対し何度も執拗に機銃掃射を繰り返したとされる。
太多線にはトンネルが無いため列車は機銃掃射を回避することができず、銃弾に曝されながらも全速力で走行し多治見駅へたどり着いたという。
被害
同時に小泉駅や多治見駅舎、駅近隣の病院や昭和小学校も銃撃に遭い、乗客を中心に40名近くが死亡したといわれる。 空襲後の多治見駅出入口には犠牲者の遺体がうず高く積まれ、多数の重軽傷者であふれかえっていたという。その後駅裏にある安養寺に遺体が運び込まれ、全遺体の身元が判明するまでに11日を要したといわれている。