吉備氏の乱
吉備氏の乱 | |
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戦争:吉備氏の乱 | |
年月日:雄略天皇7年 | |
場所: | |
結果:反乱の失敗 | |
交戦勢力 | |
ヤマト王権 | 吉備軍 新羅 |
指導者・指揮官 | |
吉備上道臣田狭 | |
吉備氏の乱(きびしのらん)は、雄略天皇7年に吉備上道臣田狭(吉備田狭)が新羅と結託して朝廷に起こした反乱である。
概要
吉備田狭が朝廷で妻の稚媛を自慢していることを聞いた雄略天皇が、吉備田狭が任那に出兵している間に稚媛を奪ったためだと日本書紀に記載されている。
朝廷は吉備田狭の子、弟君を討伐に向かわせるも吉備田狭に寝返った。しかし、弟君はそのことを知った妻樟媛に殺された。反乱は失敗したが、吉備田狭は生き残った。
星川皇子の乱
その後、稚媛は雄略天皇の子星川稚宮皇子を産み、雄略天皇の死後に皇子を皇位につけようとした、星川皇子の乱を起こした。吉備上道臣らはこれに水軍40艘を率いて来援したが、皇子の敗死により引き返した。