司馬防

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司馬 防(しば ぼう、149年 - 219年)は、中国後漢末期の政治家。建公河内郡温県の人。曽祖父は司馬鈞。祖父は司馬量。父は司馬雋。子は司馬朗司馬懿他8名いたが皆優秀で、全員が字に「達」の字を持っていたため「司馬八達」と呼ばれた。西晋)の武帝(司馬炎)は曾孫にあたる。

生涯

先祖は司馬卬まで遡るという。曽祖父は征西将軍までなり、祖父は豫章太守、父は潁川太守まで上った(『晋書』「宣帝紀」)。

質実剛健で、寛いでいるときも威厳を崩さなかったという。『漢書』の名臣列伝を愛読し、諳んじることができた。州郡に取り立てられ、洛陽の県令、京兆尹を歴任、老年になると騎都尉に転任となった。村里に住まい自分の生き方を守って門を閉ざしていたという。子との関係は厳格で、子達は成人していた後であっても、言い付けがなければ部屋に入ることも、座したり発言することも許されなかったという。建安24年に71歳で亡くなった。(『三国志』魏志「司馬朗伝」が引く司馬彪の「序伝」・『続漢書』)

治書御史の職にあったとき、董卓が後漢の実権を握り、洛陽から長安への遷都を強行したため、それに従うことになったが、このとき、司馬朗に命じて家族を故郷に戻らせたという(『三国志』魏志「司馬朗伝」)。

曹操が若い頃、孝廉に挙げられていたとき、尚書右丞であった司馬防は、曹操を洛陽北部都尉に起用したという(「武帝紀」が引く『曹瞞伝』)。

後に曹操が後漢の実権を掌握し魏王にまで昇ると、に司馬防を呼び寄せてともに飲食を楽しんだ。曹操は司馬防に、今でも自分を尉に推挙するかと聞いたところ、司馬防は、その昔に王を推挙したときはその官職が丁度良かったまでだと答え、曹操は大笑いしたという(「武帝紀」が引く『曹瞞伝』)。

参考文献