南部晴継
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 元亀元年(1570年)[1] |
死没 | 天正10年1月24日(1582年2月16日) |
別名 | 幼名:鶴千代[1]、通称:彦三郎[1] |
戒名 | 興源院殿芳梢華公[1] |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 父:南部晴政[1] |
兄弟 | 娘( 南部信直正室)、娘(九戸実親正室)、娘(北秀愛正室)、晴継 |
南部 晴継(なんぶ はるつぐ)は、陸奥の戦国大名。南部氏の第25代当主。
略歴
元亀元年(1570年)、第24代当主・南部晴政の嫡男として生まれる。父・晴政は実子の誕生をあきらめて叔父・石川高信の長男・南部信直を養子に迎えていたが、晴継が生まれると次第に信直を疎むようになり、天正4年(1576年)には信直を廃嫡して晴継を世子にしている。天正5年(1577年)、北信愛を烏帽子親として元服した。
なお、家督相続の時期に関しては、天正元年(1573年)、天正5年(1577年)、天正10年(1582年)の3説があるが、信直と晴政の養子関係が白紙になったのは天正4年(1576年)である。ということは天正5年説か天正10年説の2つに絞られるが、その翌年はまだ8歳という幼少であることを考えると、やはり天正10年(1582年)、父の晴政が病没したために家督を継いだものと思われる[1]。
家督を相続した直後と思われる13歳で疱瘡を病んで死んだ[2]。父の葬儀を終わらせて三戸城に帰城する途上で、夜陰に乗じた暴漢に襲われて一命を落としたとも言われる[1]。この暴漢は、家督を狙っていた南部信直が指揮していたものとも、九戸政実が指揮していたものとも言われ、いずれも暗殺の可能性が高い。また異説では、父の晴政ともども南部信直の反乱によって殺されたといわれる。
参考文献・脚注
- 阿部猛 編『戦国人名事典コンパクト版』西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。