南部信順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 南部信順 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
| 生誕 | 文化11年1月11日(1814年3月2日 |
| 死没 | 明治5年2月20日(1872年3月28日) |
| 官位 | 従四位下、遠江守、侍従 |
| 藩 | 陸奥国八戸藩主 |
| 氏族 | 島津氏→南部氏 |
| 父母 | 父:島津重豪、母:於曽美(杉浦政信の娘、高木玄達養女) 養父:南部信真 |
| 兄弟 | 島津斉宣、奥平昌高、島津忠厚、有馬一純、 黒田長溥、信順 |
| 妻 | 正室:南部信真の娘・鶴姫 |
| 子 | 栄信、邦次郎(次男・早世)、八百姫、 仁姫(早世)、聖姫(早世)、 慶姫(櫛笥隆義室のち加藤明実継々室)など、 養女:植村家壺室(植村家貴娘) |
南部 信順(なんぶ のぶゆき)は、陸奥国八戸藩の第9代(最後)の藩主で明治初期の政治家。薩摩藩主・島津重豪の十四男として生まれ、八戸藩の第8代藩主・南部信真の婿養子となる。
来歴 [編集]
天保9年(1838年)に南部八戸藩の養嗣子として迎えられ、天保13年(1842年)に家督を相続する。重豪の息子の養子先は中津藩、福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩(有馬氏)など有力藩が多く、2万石しかない小藩・八戸藩への養子は異例であった。お由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう幕府に運動した。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、東北地方の北辺にある小藩であった八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けることとなる。というのも信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために最初から仮想敵として見られていたからであった。信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功する。
明治2年(1869年)6月22日には八戸藩知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県により知藩事を辞任。
明治5年(1872年)に死去、享年59。家督は長男の栄信が継いだ。
逸話 [編集]
- お由羅騒動の時には実兄の黒田長溥と共に島津斉彬の擁立に尽力した。
- 日蓮宗富士派・大石寺門流(現在の日蓮正宗)の檀家としても知られている。特に八戸法難と呼ばれる前藩主からの迫害に苦しんでいた大石寺門流の檀家を法難から救い、自らも嘉永6年頃に島津斉彬、天璋院篤姫と共に大石寺信仰に篤く帰依した。後に安政期から八戸藩内の黄檗宗玄仲寺(廃寺)の引寺を発願して、文久元年(1861年)に大石寺末の玄中寺を創建している。
- 故郷・鹿児島を懐かしんで薩摩式の庭園を八戸藩領に造った。この庭園は平成17年(2005年)に「南部家庭園」(八戸市)として初公開された。また、義理の曾孫の久英(南部利克の四男)は縁戚関係から島津家分家の一つ加治木島津家(男爵)に婿養子に入っている。
参考文献 [編集]
- 『八戸南部史稿』八戸市、1999年
|
|||||||||||||||||
|
|||||