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北涼

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北涼(ほくりょう、397年 - 439年)は、五胡十六国時代甘粛省に存在した国。建国者は段業だが、実質的な創始者は盧水胡の沮渠蒙遜である。国号は涼。

沮渠蒙遜は、はじめ後涼に属していた。匈奴系であるとも月氏系であるとも諸説ある。397年後涼の建康太守・段業を建康公として擁立したが4年後に段業を弑殺して張掖郡で自立した。自立した後は南涼と結んで、後涼を滅ぼした。後涼滅亡後南涼に侵攻し、占領した武威郡姑臧に遷都した。その後西涼を滅ぼした。[1]沮渠牧犍は文物を劉宋に送る[2]など文治をさかんにしたが、北魏の侵攻を受けて滅ぼされた。北涼の滅亡によって、五胡十六国時代は終わったとされる。

北涼滅亡後、北涼の王族・沮渠無諱酒泉で反乱を起こし、西遷して高昌で自立し(高昌北涼)[2]、河西王として劉宋に封ぜられた。沮渠氏が西遷するまで高昌を支配していた唐契の一族が結んでいた柔然が高昌に来寇すると、高昌北涼は2代で滅んだ。

北涼の君主

北涼の元号

  1. 神璽397年 - 399年
  2. 天璽399年 - 401年
  3. 永安401年 - 412年
  4. 玄始412年 - 428年)元始とも書かれる
  5. 承玄428年 - 431年
  6. 義和431年 - 433年
  7. 承和433年 - 439年)永和とも書かれる

以下、高昌北涼

  1. 承平443年 - 460年

北涼主要年表

  • 397年 - 沮渠蒙遜が臨松に兵を起こす。段業が建康郡に兵を起こして涼州牧、建康公を称し、神璽と建元する。
  • 398年 - 沮渠蒙遜が後涼に侵攻し、晋昌太守・王徳敦煌太守・孟敏を降す。
  • 399年 - 段業が涼王を称し、天璽と改元する。
  • 400年 - 晋昌太守・唐瑤が敦煌太守・李暠を冠軍大将軍・沙州刺史・涼公に推して西涼を建国する。
  • 401年 - 沮渠蒙遜が段業を弑殺し、梁中庸らに推され大都督・大将軍・涼州牧・張掖公に就き永安と改元する。
  • 402年 - 沮渠蒙遜が後涼の姑臧に侵攻する。後涼は南涼に援兵を求める。蒙遜は敗退するが、南涼兵が姑臧で略奪を行う。西郡太守・梁中庸が反乱し、西涼に出奔する。
  • 403年 - 南涼と結んで後涼を攻めた結果、後涼は後秦に降り、後涼が滅亡する。沮渠蒙遜は弟の沮渠挐を後秦に入貢させ、後秦からの使者、梁构を受け入れる。蒙遜は後秦の西海侯に封じられる。
  • 410年 - 南涼が北涼の臨松郡に侵攻する。また北涼が南涼に侵攻し、南涼王禿髪傉檀太尉倶延らを破った。この際に南涼の姑臧で内乱が起きたため、ここを攻めた。
  • 411年 - 姑臧を支配下に収め、南涼の楽都を包囲する。南涼は禿髪傉檀の子・禿髪安周を人質として差し出したため兵を退く。また西涼にも侵攻したが大敗し、沮渠百年が戦死する。
  • 412年 - 姑臧に遷都する。沮渠蒙遜が河西王に就き、玄始と改元し、百官を置く。
  • 413年 - 沮渠政徳を世子とし、大将軍・録尚書事を加鎮する。南涼が北涼に侵攻するが撃退し、更に南涼に侵攻する。楽都を包囲された禿髪傉檀は倶延を人質として差出し、兵を引き上げる。また、西の卑和烏啼の二部を破っている。
  • 415年 - 前年南涼が降った西秦の広武郡を攻めて敗れる。西秦は北涼の湟河郡を攻めて奪う。
  • 416年 - 西秦と和平を結ぶ。
  • 417年 - 烏啼・卑和の二部を破る。
  • 418年 - 東晋から涼州刺史の位を受ける。
  • 420年 - 西涼を攻め君主の李歆を戦死させる。酒泉に入城したが略奪を禁じ、西涼の臣下で才能のあるものはこれを採用した。
  • 421年 - 西涼の敦煌を攻め、西涼を滅ぼす。また、西秦に侵攻する。劉宋から鎮軍大将軍・開府儀同三司・涼州刺史の位を受ける。西涼の晋昌太守だった唐契が晋昌で反乱を起こす。
  • 422年 - 西秦に侵攻するが将の沮渠成都が捕らえられ敗れる。
  • 423年 - 劉宋に入貢する。劉宋から都督・涼秦河沙四州諸軍事・驃騎大将軍・涼州牧・河西王の位を受ける。世子・沮渠政徳が晋昌を攻めて破る。唐契とその弟唐和、甥李宝は西涼の遺民を引き連れて伊吾に向かい、そこで柔然の臣下となった。柔然は唐契に伊吾王の称号を与えた。柔然は北涼を攻め、沮渠政徳が戦死したため、次子の沮渠興国を世子とした。
  • 425年 - 西秦に攻め込まれ、将軍・沮渠白蹄が捕らえられる。
  • 426年 - 西秦に攻め込まれた北涼はに救援を要請した。夏軍に南安を攻められた西秦は兵を退いた。北魏が夏・西秦に侵攻しているとの報を受けた沮渠蒙遜は北魏に畏れの意を表す使者を差し向けた。
  • 428年 - 承玄と改元する。
  • 429年 - 西秦に侵攻するが敗れ、沮渠興国が捕らえられる。沮渠興国は西秦から帰国を許されず、世子に沮渠菩提が立てられる。劉宋に入貢する。
  • 430年 - 北魏に入貢する。
  • 431年 - 沮渠安周を遣使として北魏に入貢する。北魏は李順を派遣し、沮渠蒙遜を侍中・都督・涼州西域羌戎諸軍事・太傅・行征西大将軍・涼州牧・涼王・武威張掖酒泉西海金城西平七郡王に任じられる。義和と改元する。
  • 433年 - 沮渠蒙遜の病が重く、幼弱だった沮渠菩提に代わって沮渠牧犍が世子に立てられる。沮渠蒙遜が崩御し、沮渠牧犍が王位に就く。その妹興平公主は北魏に後宮に送られ右昭儀となった。沮渠牧犍は劉昞を国師とした。永和と改元される。沮渠牧犍が劉宋から都督涼沙河三州西域羌戎諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司・涼州刺史・河西王に任じられる。
  • 437年 - 北魏・太武帝の妹、武威公主が沮渠牧犍の后となる。
  • 439年 - 武威公主が毒殺され、北魏がその犯人と目される沮渠牧犍の嫂・李氏の身柄を要求するが、沮渠牧犍は断った。北魏は沮渠牧犍の12の罪状を宣布し、姑臧を潰滅させる。
  • 440年 - 沮渠無諱が酒泉で反乱を起こす。張掖まで攻め上るが陥落させられず、北魏と停戦する。
  • 441年 - 北魏は沮渠無諱を征西大将軍・涼州牧・酒泉王に任じる。沮渠唐児が沮渠無諱に反乱して挙兵するが、敗死する。北魏は酒泉に兵を差し向けるが、沮渠無諱は糧秣欠乏の為、西遷を考え、弟の沮渠安周に軍勢を与え鄯善に派遣する。
  • 442年 - 沮渠無諱が敦煌に遷る。高昌の唐契を倒す。高昌に遷り、劉宋から都督涼河沙三州諸軍事・征西将軍・涼州刺史・河西王に任じられる。沮渠安周に鄯善が降る。
  • 443年 - 高昌に本拠を構え、承平と建元する。
  • 444年 - 沮渠無諱が崩御し、沮渠安周が即位する。改元は行われなかった。沮渠安周が劉宋から都督涼河沙三州諸軍事・涼州刺史・河西王に任じられる。
  • 445年 - 車師を攻撃する。
  • 459年 - 沮渠安周が劉宋から征虜将軍を加えられる。
  • 460年 - 柔然が高昌を攻め、沮渠安周が殺害される。柔然によって高昌王に闞伯周が就けられる。

脚注

  1. ^ 京大東洋史辞典編纂会『新編東洋史辞典』東京創元社、1990年、p894
  2. ^ a b 尤明智『五涼史略』甘粛人民出版社、1988年、ISBN 7-226-00243-4

参考資料