加藤明煕

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加藤明煕
時代 江戸時代中期
生誕 享保6年9月21日1721年11月10日
死没 明和9年10月14日1767年12月4日
改名 一学(幼名)、明煕
戒名 興真院釋宗覚
墓所 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地
官位 従五位下豊後守佐渡守相模守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
近江水口藩
氏族 加藤氏
父母 加藤明教松下直綱
加藤明経
松平資訓、大木氏
梅小路定福室、冷泉為栄室、
松平直行正室、幾之助、明陳明朝
明旨煕峯明堯
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加藤 明煕(かとう あきひろ)は、近江国水口藩3代藩主。水口藩加藤家7代。

生涯[編集]

享保6年(1721年)9月21日、分家の加藤明教の次男として江戸で生まれる。延享2年(1745年)8月21日に宗家で水口藩第4代藩主・加藤明経の養子となり、10月18日に豊後守に任官する。延享3年(1746年)、明経の死去により家督を継いで第5代藩主となった。

江戸城和田倉門番、大坂加番、勅使接待役など江戸幕府の公役を歴任した。しかし病に倒れ、晩年は養子の明堯に藩政の実権を譲った。明和4年(1767年)10月14日、江戸藩邸で死去した。享年47。跡を明堯が継いだ。

系譜[編集]

父母

正室

側室

  • 大木氏

子女

養子