コンテンツにスキップ

劉磐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Hansa (会話 | 投稿記録) による 2011年2月22日 (火) 13:05個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎参考文献)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

劉 磐(りゅう ばん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。兗州山陽郡高平県の人。荊州を統治していた諸侯劉表の従子。劉琦劉琮の従兄弟。

正史の事跡

姓名 劉磐
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 兗州山陽郡高平県
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 劉表
家族・一族 従父:劉表

一族:劉琦〔従兄弟〕
劉琮〔従兄弟〕

荊州の勇猛な武将として知られ、艾・西安などの諸県を度々攻撃し、呉の孫策も警戒していた。そこで孫策は、太史慈を建昌都尉に任命して劉磐に対抗させた。太史慈の統治能力は高く、これ以降は劉磐も侵攻を差し控えるようになった。

その後、劉表から中郎将に任命された黄忠と共に、長沙の攸県を守備した。劉表没後、曹操が荊州を支配するようになると、黄忠はそのまま長沙太守韓玄の指揮下に入ったが、劉磐の行方は不明である。

物語中の劉磐

小説『三国志演義』では、曹操が荊州を支配した後は、攸県で隠居していたことになっている。長沙が劉備の支配下に入ると、黄忠の推挙で劉備に仕え、長沙を統治することになった。ただし、『演義』での事跡を裏付ける正史の記述は一切無い。

参考文献