劉磐
劉 磐(りゅう ばん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。兗州山陽郡高平県の人。従父は劉表。従兄弟は劉琦・劉琮・劉脩・劉虎。
正史の事跡[編集]
姓名 | 劉磐 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 兗州山陽郡高平県 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 劉表 |
家族・一族 | 従父:劉表 |
劉表配下。荊州の勇猛な武将として知られ長沙郡を守備していた。江東の孫策からも警戒されていたという。このため孫策は、太史慈を建昌都尉に任命して劉磐に対抗させた。劉磐は何度か侵攻したが、太史慈の統治能力が高かったため、侵攻を差し控えるようになった。
その後、劉表から黄忠と共に長沙の攸県の守備を任された。劉表没後、曹操が荊州を支配するようになると、劉磐は流浪の将軍となり、長沙の艾・西安の諸県を蹂躙したという。以降の行方は不明である。
物語中の劉磐[編集]
小説『三国志演義』では、曹操が荊州を支配した後は、攸県で隠居していたことになっている。長沙が劉備の支配下に入ると、黄忠の推挙で劉備に仕え、長沙を統治することになる。