韓玄

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韓 玄(かん げん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。

[編集] 正史の事跡

姓名 韓玄
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 長沙太守
爵位・号等 -
陣営・所属等 曹操
家族・一族 〔不詳〕

正史においては、曹操が荊州を制圧したときの長沙太守であり(『三国志』蜀書黄忠伝)、金旋劉度らと共に劉備の軍勢に降伏した(『三国志』蜀書先主伝)という記述しかない。これ以降、史書に登場しないため、生死を含め韓玄の動向は不明である。一方で、韓玄の指揮下にあった黄忠は、その後劉備陣営の主力武将として大いに活躍した。

なお長沙には、韓玄の墓が現存している。

[編集] 物語中の韓玄

演義』では、生まれつき気が短く、みだりに人を殺すので恨みを買っていたとされる。また、に仕えた韓浩の兄とされているが、正史にはそのような記述は無く、創作の関係である。

荊州平定をめざす劉備の配下である関羽が攻めてきたとき、当時家臣であった黄忠を出陣させて対抗したが、黄忠が関羽と内通しているのではないかと猜疑し、黄忠を捕らえて処刑しようとする。しかし、逆に民衆を煽動して反乱を起こした魏延によって殺害された。後日、韓玄の遺体は、黄忠により長沙城外に手厚く葬られている。

なお、横山光輝の漫画『三国志』では、韓玄は悪代官風の姿で登場し、具体的に暴政を振るっていた様も詳細に描き出されている。また、光栄(コーエー)の『三国志』シリーズなどのゲームでも、ほとんどが悪人面の老人に描かれ、低水準の能力値の武将として扱われており、日本での韓玄のイメージの固定化を助長していると思われる。

しかし、史書からは、韓玄がそのような暴虐な人物であった根拠となる記述が全く見当たらない。単に、黄忠・魏延の劉備陣営参加を盛り上げるための演出と思われる。

[編集] 参考文献