劉曜
劉曜 | |
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前趙 | |
5皇帝 | |
王朝 | 前趙 |
在位期間 | 318年 - 329年 |
姓・諱 | 劉曜 |
字 | 永明 |
諡号 | 無 |
廟号 | 無 |
没年 | 329年 |
父 | 劉緑 |
母 | 胡氏 |
年号 | 光初 : 318年 - 329年 |
劉曜(りゅう よう)は、五胡十六国時代の前趙の第5代皇帝。国号を漢から趙(前趙)に改めた。
『晋書』劉曜伝によると、身長は9尺3寸、5尺の髭、白い眉、赤い瞳を持っていたという。漢を興した劉淵の従子で劉聡の族弟、幼い頃に父・劉綠が亡くなり、従父の劉淵に引き取られ養われた。剛胆かつ文武に秀で、養父の劉淵からは「劉家の千里の駒」と呼ばれた。
20歳で洛陽に遊学した、事件に連座し誅殺されそうになり、朝鮮に逃亡したが、恩赦にあって帰還した。その後、管涔山に隠遁した。304年10月に劉淵が漢王を称すると、建武将軍となって并州刺史・司馬騰と戦った。308年10月に劉淵が称帝すると龍驤大将軍となった。309年9月、11月に劉聡と共に洛陽を攻撃したが勝利できなかった。
劉聡が即位すると、しばしば戦功を立て、311年6月に洛陽を陥落させ、晋の懐帝を捕虜とした、大略奪を行い、晋朝の王公以下3万余人を殺害した。このとき捕らえた西晋の羊皇后(羊献容)を妻として3人の子をもうけた。8月、劉粲の後継で長安を陥落させた、車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧となり、始平王から中山王に改封され、長安の鎮守となった。312年4月、長安を奪い返され、8万人を無理やり平陽に連れ去った。以降数年に亘り晋軍と攻防を繰り広げた。
建元二年(316年)11月、長安を攻めて晋の愍帝を捕らえ、秦王に封ぜられて再び長安の鎮守となった。建元四年(318年)、劉聡が没する直前に丞相として輔政されようとしたが固辞した、8月、劉粲のもとで相国・都督中外諸軍事に上った。靳準の乱で劉粲が殺されると、長安から平陽に向かい、10月に途中の赤壁で皇帝に即位し、光初と改元した。平陽で靳準が殺され、12月、靳明が伝国璽を送って降伏した。靳氏を全て誅殺した。長安に遷都し、羊献容を皇后とし、劉熙を皇太子とした。
光初二年(319年)、冒頓単于を天に配し、国号を趙と改めた。4月、晋の秦州刺史・陳安が帰順した。11月、石勒が趙王を名乗って独立した。光初三年(320年)1月、晋王を名乗る司馬保を逃走させた。5月、陳安が離反した。関中で句渠知に30余万人が呼応し大反乱となった、遊子遠が車騎将軍となって平定した、陳安が再び帰順した。太学と小学をたてた。光初五年(322年)仇池に親征し、楊難敵が称藩した。陳安が涼王を名乗り叛いた。羊献容が死去し献文皇后と諡号した。父と妻に大墳墓を造ろうとして、遊子遠に諫言された。
光初六年(323年)、親征して7月、陳安の乱を平定し、さらに28万5千の大軍で進軍して前涼を藩国とした。劉胤を永安王に封じ、侍中・衛大将軍・都督二宮禁衛諸軍事・開府儀同三司・領太子太傅とし、皇子と号した。劉胤の母の卜氏に元悼皇后を追諡した。光初七年(324年)後趙の石他が上郡を襲った、従弟劉岳を派遣し、石他を斬った、これから両国は戦争状態となった。楊難敵が離反した。10月、無主の洛陽に後趙が進駐した。光初八年(325年)、劉岳に洛陽を攻撃させたが、4月までに撃退された。劉曜自身が救援に向かったが、前軍が大敗し、兵士が夜中に恐慌を起こし長安に帰還した。6月、劉岳は敗北して捕虜となった。劉胤を大司馬とし南陽王に進封した、単于台を置き大単于とした。
光初十年(327年)、前涼が離反し、晋の涼州牧を名乗り秦州を攻掠した、10月、劉胤を派遣し撃退した。光初十一年(328年)7月、後趙が前趙領に侵攻した、8月、劉曜自らが迎え撃ち大勝した、その勢いで攻め上り、洛陽を占領した。12月、石勒自ら率いる後趙軍と戦い、敗北して捕虜となった。光初十二年(329年)1月、石勒は劉岳を派遣し宴を催した。後趙への降伏を促されたが拒否した、そのため石勒に殺害された。
性格は大らかで爽やか、読書好きで文章も上手く、筆を下ろせばたちまちのうちに名文美文を書きあげた。書道が得意でとくに草書・隷書が上手かった。その上武芸にも秀で、厚さ1寸の鉄板をも貫通する強弓を使いこなし「神射」と呼ばれた。『晋書』ではその能力を認めつつも、自分から味方を敵にまわしたから滅亡したのだと、手厳しく批評されている。
宗室
后妃
子女
- 女子(後趙石虎の皇后)
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