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内山愚童

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内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年5月17日 - 1911年1月24日)は、日本の仏教者・僧侶曹洞宗林泉寺住職)・社会主義運動家。幸徳事件大逆事件)で処刑された12名の1人。

略歴

新潟県北魚沼郡小千谷、宮大工で木形職人であった直吉の息子に生まれる。本来は家業を継ぐはずであったとされる。16歳に父が死去する。19歳になり、上京する。井上円了の住み込みもしていたとの情報もある[1]

1897年神奈川県宝増寺で出家し『天室愚童』を名乗る。曹洞宗第十二学林卒業。1904年神奈川県箱根町にある林泉寺の住職となる。

1908年パンフレット『無政府共産』などの出版で逮捕される。1908年8月12日から14日にかけて、住職を務めている林泉寺に、幸徳秋水が2泊ほど宿泊している。

1909年5月24日に、「出版法」および「爆発物取締罰則」違反で逮捕され、拘束されたまま釈放されず刑死することとなる。1909年7月6日に、林泉寺の住職を辞任する。1910年4月5日に懲役7年の判決が下される。同年に発覚した天皇暗殺計画の幸徳事件(大逆事件)に連座することとなる。実際に暗殺計画を立案したとされる宮下太吉の証言により、彼の明治天皇暗殺の動機の一つに、『無政府共産』が関連あるとされる。1911年1月18日に、死刑判決を受ける。計画犯ということが確実視される宮下太吉・新村忠雄古河力作管野スガら4人および計画に関わったという説が強い幸徳秋水とともに、同年1月24日に刑死する。享年36。当日処刑された12人のうち、内山愚童を含めた7人については、無罪であることで、学説は一致している。

1993年4月13日、曹洞宗で、名誉回復がなされる[2][3]2005年に、林泉寺で、愚童忌が行われる。

エピソード

絓秀実と同郷であり、そのことが『「帝国」の文学──戦争と「大逆」の間』を絓が著す動機の一つとなった。

脚注

外部リンク