伴須賀雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。豆もち (会話 | 投稿記録) による 2014年3月26日 (水) 13:10個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

伴 須賀雄(とも の すがお、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族日向権守伴和武多麻呂[1]または右兵衛督伴勝雄[2]の子。官位従四位上因幡権守。

経歴

承和年間に備後権掾を務め、この間の承和5年(838年遣唐使に随行して渡し、翌年無事帰国している(この時の位階正六位上)。嘉祥3年(850年文徳天皇即位後に従五位下叙爵し、文徳朝では土佐権守紀伊介・縫殿頭を歴任する。

清和朝に入り、貞観2年(859年)従五位上に昇叙され、引き続き縫殿頭を務めたのち、大和介・但馬守を歴任した。陽成朝では、主殿頭因幡権介を務める傍ら、元慶元年(877年従四位下、元慶6年(882年)従四位上に至っている。

人物

囲碁の名人で、承和6年(839年)共に当時囲碁の名人とされていた伴雄堅魚とともに、仁明天皇に召されて囲碁の対局を行った。この際、須賀雄が石二子格上であったが、5局指して1勝4敗だったという[3]

脚注

  1. ^ 鈴木真年『百家系図』巻59,大伴宿禰
  2. ^ 地下家伝
  3. ^ 『続日本後紀』承和6年10月1日条

参考文献