伊庭秀業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。松茸 (会話 | 投稿記録) による 2015年10月30日 (金) 05:40個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (+Cat)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

伊庭 秀業(いば ひでなり、文化7年(1810年) - 安政5年8月13日1858年9月19日))は、江戸時代末期(幕末)の剣客。本姓は三橋銅四郎。通称は軍兵衛常同子

生涯

文化7年(1810年)、 誕生[1]。文化6年(1809年)[2]、文化8年(1811年)生誕の文献もある[1]

心形刀流7代・伊庭秀淵の養子となり[2]、8代目を継いで中興の祖といわれた。江戸幕府老中水野忠邦の推挙で御書院番士となったが、忠邦の失脚とともに辞職。以後は江戸下谷の道場「練武館」の経営に精を出し、「幕末江戸四大道場」と並び称された。子に伊庭八郎伊庭想太郎がいる。門人に坪内主馬など。養子の秀俊に家督を譲る[2]

安政5年(1858年)、死去[2]。死因はコレラであったという[2]

東京都中野区沼袋貞源寺に伊庭秀業の墓がある[2]

脚注

参考文献

  • 清水昇幕末維新剣客列伝』学研パブリッシング、2010年。ISBN 9784054043909http://books.google.com/books?id=6iESARh9Ll4C 
  • 歴史群像編集部 編『全国版幕末維新人物事典学研パブリッシング、2010年。ISBN 9784054044630http://books.google.com/books?id=m3SLUHjNgSsC 

外部リンク