伊庭秀業
伊庭 秀業(いば ひでなり、文化7年(1810年) - 安政5年8月13日(1858年9月19日))は、江戸時代末期(幕末)の剣客。本姓は三橋銅四郎。通称は軍兵衛。号は常同子。
生涯
文化7年(1810年)、 誕生[1]。文化6年(1809年)[2]、文化8年(1811年)生誕の文献もある[1]。
心形刀流7代・伊庭秀淵の養子となり[2]、8代目を継いで中興の祖といわれた。江戸幕府老中・水野忠邦の推挙で御書院番士となったが、忠邦の失脚とともに辞職。以後は江戸下谷の道場「練武館」の経営に精を出し、「幕末江戸四大道場」と並び称された。子に伊庭八郎、伊庭想太郎がいる。門人に坪内主馬など。養子の秀俊に家督を譲る[2]。
安政5年(1858年)、死去[2]。死因はコレラであったという[2]。
脚注
参考文献
- 清水昇『幕末維新剣客列伝』学研パブリッシング、2010年。ISBN 9784054043909 。
- 歴史群像編集部 編『全国版幕末維新人物事典』学研パブリッシング、2010年。ISBN 9784054044630 。
外部リンク
- 伊庭 秀業 Webcat Plus