久我通忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Jygvqxl (会話 | 投稿記録) による 2015年7月5日 (日) 13:30個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎系譜)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
久我通忠
時代 鎌倉時代中期
生誕 建保4年(1216年
死没 建長2年12月24日1251年1月17日
別名 久我右大将
官位 正二位大納言、右近衛大将
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 村上源氏久我家
父母 父:久我通光、母:藤原範光の娘
兄弟 通平通忠宣通通能雅光雅忠六条通有道朝式乾門院御匣
正室:唐橋通時の娘
継室:平光盛の娘
通基久我具房親玄
テンプレートを表示

久我 通忠(こが みちただ)は、鎌倉時代中期の公卿。正二位大納言右近衛大将久我右大将と号す。父は太政大臣久我通光、母は権中納言藤原範光の娘。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って。

建保6年(1218年)1月5日、叙爵。承久2年(1220年)1月22日、承明門院の御給により従五位上に昇叙。同年4月6日には侍従に任ぜられる。嘉禄元年(1225年)4月26日、正五位下に昇叙。同年12月22日には右少将に任ぜられる。嘉禄2年(1226年)1月5日、従四位下に昇叙[1]安貞元年(1227年)12月25日、左中将に任ぜられる[2]安貞2年(1228年)2月1日、加賀介を兼ねる。安貞3年(1229年)1月5日、従四位上に昇叙。寛喜2年(1230年)3月12日、中宮権亮を兼ね、14日には正四位下に昇叙。同年10月25日、従三位に叙され左中将は元の如し。寛喜4年(1232年)1月30日、因幡権守を兼ねる。貞永2年(1233年)1月6日、正三位に昇叙。

文暦2年(1235年)8月20日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。嘉禎2年(1236年)2月30日、権中納言に任ぜられる。同年5月22日には帯剣を許される[3]。嘉禎3年(1237年)1月29日、従二位に昇叙。嘉禎4年(1238年)閏2年27日、正二位に昇叙。同年7月20日、中納言に転正[4]暦仁2年(1239年)1月24日、権大納言に任ぜられる。仁治2年(1241年)10月3日、病により権大納言を辞退。仁治3年(1242年)2月21日、本座を許される[5]

寛元2年(1244年)6月13日、権大納言に還任。寛元4年(1246年)12月24日、父通光太政大臣となる。宝治元年(1247年)9月28日には叔父である源定通が薨去。宝治2年(1248年)1月、父通光が薨去したため喪に服す。同年3月9日に復任し、同月10日には右近衛大将を兼ねる。建長2年(1250年)5月17日、大納言に転正[6]。同月27日、淳和院別当に補される。同年12月[7]24日、薨去。

久我家所領争いに直面する

父通光が後室として三条(西蓮)を迎え、所領を三条に任せる旨の置文を残したため、所領争いに直面することになった。通忠の母は藤原範光の娘であり、つまり通光の生母範子の姪にあたるため、源通親の指示に基づく婚姻関係だと推測できる。雅光の生母が三条だとすると、承久の乱後に通光は我意によって三条を後室として迎えた可能性が高い。そうした中で通忠は継母との争いをすることになり、同時に通親の子供たちが順次亡くなり、村上源氏一門の他家の進出にも直面する中で早世してしまうのである。

系譜

脚注

  1. ^ この年に異母兄通平が薨去。
  2. ^ この年に叔父である源通具が薨去。
  3. ^ 6月には叔父である源定通内大臣となる。
  4. ^ 12月28日に叔父である源通方が薨去。
  5. ^ 同年3月18日、邦仁親王が即位。
  6. ^ 同日、一門の堀川具実内大臣に任じられている。
  7. ^ 『百練抄』では11月

参考文献