久我晴通

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久我 晴通(こが はれみち(はるみち)、永正16年(1519年) - 天正3年3月13日1575年4月23日))は、室町時代後期の公卿。おもに後奈良天皇(105代)時代の朝廷に仕え、官位正二位官職権大納言右近衛大将まで昇った。実父は近衛尚通。母は徳大寺維子徳大寺実淳の娘)。兄に近衛稙家がいる。夫人は若狭武田元光の娘であり、子に久我通堅岩倉具堯奈多直基(なた なおもと、幼名:万福丸、奈多鑑基の嫡男鎮基の養嗣子)、娘(近衛前久北政所)、瑞光院(西園寺実益室)、興春院(久我敦通(通堅の子)室、後に小倉季藤室)らがいる。「晴」の字は姉・慶寿院の夫でもある将軍・足利義晴からの偏諱と思われる。

近衛尚通(関白太政大臣)の次男として誕生。久我邦通(権大納言)が嗣子無く没したので、邦通の父通言養子に入った。天文2年(1533年)に叙爵して元服、侍従に列した。その後も右近衛少将右近衛中将を歴任し、天文5年(1536年)に従三位権中納言となった。またこの年に源氏長者となり、奨学院別当に任命された。天文12年(1543年)に権大納言、さらに天文14年(1545年)に淳和院の別当となる。天文22年(1553年)右近衛大将となるが、何を思ったか、この年に突然出家して朝廷を去った。三十五歳の若さであった。以降も薨去するまで政務に復帰することはなかった。

男子のうち、長男通堅が久我家を継ぎ、次男具堯は分家して岩倉家を興した。その岩倉家の系譜上の子孫が岩倉具視(別の公家堀河家からの養子)である。

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