中村好明 (音楽家)

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中村 好明(なかむら よしあき[1]1917年大正6年)9月28日[1] - 2019年平成31年)2月[要出典])は、日本の音楽教育者。名前は「こうめい」と通称された。ふしづくりの音楽教育山本弘、下通進平らと確立した[1]。旧姓・飯島[1]

来歴[編集]

1917年、岐阜県大野郡高山町上三之町(現・高山市)に生まれる。東尋常小学校を卒業後、特進で岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)に入学。このとき高山から同時に入学したのが山本弘・下通進平だった[2]

1937年昭和12年)、岐阜県師範学校を卒業し、音楽教諭となる。高山市立西小学校在勤中、『国民学校音楽教育』(1942年)、『音楽教育基本指導』(1948年)、『基底カリキュラム 音楽編』(1950年)といった音楽教育指導書を執筆し、1954年には『音楽のおけいこ』を上梓する[2]。山本弘らと「ふしづくり」による音楽教育を、飛騨地方において実践した[3][2]。「ふしづくりの教育」は、中村が理論を山本らに提供し、山本が教育現場で実践するとともに、中村は教員に対して指導をおこなう形であった[2]

1962年(昭和37年)、全国指導主事会議で岐阜県の『音楽能力表』とそれに準じた『能力テスト(ソノノート)』を山本弘と共に紹介する。1977年(昭和52年)、文部大臣表彰を受ける。翌年、教職を退く。

退職後は、南友コーラス、教職員退職者で作るコーラス翠陽を主宰するとともに、高山市民合唱団、高山少年少女合唱団、高山市民吹奏楽団の設立運営に関与した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『飛騨人物事典』高山市民時報社、2000年、485-486頁。
  2. ^ a b c d 三村真弓, 吉富功修, 松永洋介, 中村隆夫, 山﨑俊宏, 「岐阜県におけるふしづくりの音楽教育成立の軌跡」『音楽教育学』 2012年 42巻 2号 p.72-76, 日本音楽教育学会, doi:10.20614/jjomer.42.2_72, NAID 130005529266
  3. ^ 広報高山の文化 No.212 (PDF) 』高山市文化協会、2019年10月(2ページ目「高山の文化を高めた人々 73 父、山本弘について」を参照)