上遠野氏
上遠野氏 | |
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二つ巴 | |
本姓 | 藤原北家秀郷流小山氏庶流 |
家祖 | 上遠野秀時 |
種別 | 武家 |
出身地 | 陸奥国菊多郡上遠野郷[1] |
主な根拠地 | 陸奥国菊多郡上遠野郷 |
著名な人物 |
上遠野盛秀 上遠野広秀 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
応永11年(1404年)、藤井陸奥守政朝が軍功により陸奥国菊田庄上遠野郷を賜り、孫の秀時の代に日の沢城を築き城下の地名をとり上遠野氏を称したという。上遠野長秀は岩城常隆の娘を娶るなど岩城氏と姻戚関係を結び国人領主としての地位を維持していたが、次男の秀永は佐竹氏の赤館城奪取後、佐竹氏の家臣となり、一門の美濃守経秀は蘆名氏の配下として対佐竹戦線の武将となるなど、一門の多くは周辺諸勢力の配下に組み入れられていった[2]。 また、なおも独立を維持していた上遠野惣領家は盟友・岩城氏が伊達氏に服従するに及び、帰農したとされる[3]。
宮城県の上遠野氏
上遠野氏惣領家の帰農後、一門の中には伊達氏に付き従った者がおり、その子孫から上遠野広秀、上遠野下野、上遠野要人ら願立流刀術や手裏剣を扱う撃剣家が輩出されている[4]。
秋田県の上遠野氏
秋田県の上遠野氏は佐竹氏に随身した一門である。上遠野大炊頭隆秀ははじめ佐竹氏に随身し、上遠野邑[5]から三坂一千石を賜り、後に佐竹氏の秋田転封に随行したという。秋田藩士の系譜の中に上遠野氏が一家系見えることから、隆秀の子孫か。以下に系譜を載せる。なお、秋田藩士上遠野氏は代々湯沢に住まうという[6]。
系譜 上遠野秀式―秀益一秀治―秀宗一秀次―藤兵衛秀直―藤助秀明
福島県の上遠野氏
また、惣領家はじめ上遠野邑一体に残留した一門も多く、子孫には福島県磐城郡議会議員、福島県磐城郡窪田村議会議員を歴任した安島大次郎の妻として上遠野佐平の女・ ヒロ子の名も見える[7]。
脚注
- ^ 上遠野村
- ^ 但し、蘆名氏も佐竹義重の次男・義広を養嗣子に迎え、最終的には佐竹派となっている。佐竹氏が文禄4年(1595年)8月28日の「高野郡関係知行充行奉書目録」によれば上遠野美濃なる人物に佐竹氏の陸奥南郷領の一色なる地に70貫を給されているが、この上遠野美濃は経秀と同一人物か。 佐々木倫朗著「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)67頁、佐々木倫朗著『戦国期権力佐竹氏の研究』(思文閣出版、2011年) 232頁、233頁参照。
- ^ 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)1748頁、1749頁参照。
- ^ 仙台藩の上遠野氏については、仙台藩蔵『仙台藩封内記』に記録がある。太田亮前掲書(角川書店、1934年)1749頁参照。
- ^ 邑
- ^ 太田亮前掲書(角川書店、1934年)1749頁参照。秋田県公文書館編『系図目録Ⅰ (PDF)』 (秋田県、2001年)104頁参照。常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)なども参照。
- ^ 時事通信社編『福島県人名辞典』(時事通信社、1914年)35~36頁参照。
参照文献
- 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)
- 佐々木倫朗著「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)
- 佐々木倫朗著『戦国期権力佐竹氏の研究』(思文閣出版、2011年) 232頁、233頁参照。
- 時事通信社編『福島県人名辞典』(時事通信社、1914年)
- 常陸太田市史編さん委員会編前掲書(常陸太田市、1982年)