三ツ者
三ツ者(みつもの)は日本の戦国時代の大名・武田信玄が組織した隠密集団。情報収集を得意とし、信玄はこの集団を巧みに操り、全国に広域な情報網を張り巡らせたことから「足長坊主」と渾名された。家忠日記では、武田側のかまり、となっており。忍び斥候は、かまりと呼ぶことが多い。甲州透破、甲州忍者とも。
概要
三ツ者は間見、見方、目付の三職に携わる者の総称で、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行い、多くの情報を齎した。収集分野は多岐に渡り、他国の内情や家臣の動向、保有兵力などをはじめ、城主の能力や趣味嗜好、城や砦の造りなどであった。狼煙を主な通信手段として新鮮な情報が逐一、信玄の元へ届けられたという。信玄はこれらの収集した情報を分析し、調略に用いる事で自国に有利な合戦を繰り広げ、常勝軍団を築き上げた。三ツ者が収集した情報を使用した調略の様子については『甲陽軍鑑』などを紐解けば詳しく記されている。
1548年の上田原の戦いに敗れた信玄は三ツ者の諜報能力強化を図るため、地方より様々な職能を持つ者を三ツ者へ取り込んでいき、最盛期には200人を超える大規模な集団へと発展した。浅間神社に仕えた富士御師などもそのひとつである。
後世の忍者観
実際に武田信玄は辺境武士を活用して、大きな情報収集ネットワークを構築していたが、甲州忍者として注目されがちで、誇張されて表現されることが多い。
頭首
その他
武田家には他にも辺境武士集団などの情報収集の為の組織があった。
歩き巫女
詳細は「歩き巫女」を参照
横目衆
甲斐では、親衛隊及び国境守備担当の原胤従以下、横目衆が領内で起こったことを見聞きして報告した。(後の徳川家甲州九口之道筋奉行)
渡辺囚獄佑
富士御師で九一色衆の渡辺囚獄佑の天正壬午の乱での行動は後世の透波の活躍イメージに近い。