ルキウス・アエブティウス・ヘルウァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ルキウス・アエブティウス・ヘルウァ
L. Aebutius T. f. T. n. Helva
出生 不明
死没 紀元前463年
出身階級 パトリキ
氏族 アエブティウス氏族
官職 執政官(紀元前463年)
テンプレートを表示

ルキウス・アエブティウス・ヘルウァラテン語: Lucius Aebutius Helva、生年不詳 - 紀元前463年)は共和政ローマ初期の政治家・軍人。紀元前463年執政官(コンスル)を務めた。

出自[編集]

パトリキ(貴族)であるアエブティウス氏族の出身。彼のコグノーメンディオドロスはアルバスとしている[1]。父は紀元前499年の執政官ティトゥス・アエブティウス・ヘルウァと思われる。

経歴[編集]

紀元前464年の終わりに空が炎に包まれる予兆があったが、翌前463年の始まりである8月1日、アエブティウスは執政官に就任した。しかし、この年はディオニュシオスによれば9月から疫病が流行し始め、ほぼ一年間猛威を振るったという[2]リウィウスも天候不順が続き、略奪を恐れた家畜や農夫がローマに収容されたため、悪疫が勢いを増したとしている。

ローマと同盟を結んでいたヘルニキ族がまずアエクイ族ウォルスキ族に略奪を受けたもののローマは援軍を出せず、すぐにローマ領にも侵入されたがアエブティウスは既に病死しており、同僚のプブリウス・セルウィリウス・プリスクス他、リウィウスによれば元老院議員の大半と徴兵対象者のほぼ全てが病を得ていたという[3]

結局敵は疫病のせいで不毛の地と化していたローマに魅力を感じず、転進してトゥスクルムを襲撃した。ヘルニキとラティウム同盟はローマを救援すべくアエクイ・ウォルスキと戦ったものの敗北し、ローマでもセルウィリウスや紀元前479年の執政官ウェルギニウス・ルティルス紀元前500年の執政官セルウィウス・スルピキウスなど多数の要人に死者が出たという[4][5]。疫病が落ち着いたところでインテルレクスが何名か選出され、ウァレリウス・プブリコラの番の3日目に翌年の執政官が選出された[6]

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

公職
先代
アウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシス
スプリウス・フリウス・メドゥッリヌス・フスス
執政官
同僚:プブリウス・セルウィリウス・プリスクス
紀元前463年
次代
ルキウス・ルクレティウス・トリキピティヌス
ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス