ボチカイ・イシュトヴァーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。114.182.43.214 (会話) による 2011年12月11日 (日) 08:27個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ボチュカイ・イシュトヴァーン
ボチュカイの宝冠

ボチュカイ・イシュトヴァーン(Bocskai István, 1557年1月1日 - 1606年12月29日)は、トランシルヴァニア出身のハンガリー人貴族。1604年から1606年まで王領ハンガリー(現在のスロバキア東部)で続き、モラヴィアオーストリアにまで波及した反ハプスブルク家蜂起の指導者となり、トランシルヴァニア公(在位:1605年 - 1606年)も務めた。

生涯

1557年、ボチュカイ・ジェルジとその妻スリョク・クリスティナとの間の息子として、コロズヴァール(現在のルーマニアクルージュ=ナポカ)で生れた。ボチュカイは古くから続くボチュカイ家の中で最も高名な人物である。バートリ・ジグモンド公の主要な相談役として、ボチュカイは主君にオスマン帝国との同盟に代えて神聖ローマ皇帝との同盟を結ぶよう助言し、頻繁にプラハおよびウィーンへと赴いて重要な外交交渉を行った。

ボチュカイは後にバートリ家のトランシルヴァニア公達から憎まれるようになり、1599年には領地も没収されたため、神聖ローマ皇帝の宮廷の庇護を求める事になった。しかし皇帝ルドルフ2世王領ハンガリーの国法を踏みにじり、プロテスタントの宗教的権利を剥奪すると、ボチュカイは皇帝と不和になった。特に1602年から1604年にかけて、ジョルジョ・バスタやジャコモ・ジェルジョジョーソら皇帝軍の将軍達は、トランシルヴァニア人達に乱暴狼藉の限りを尽くした。

トランシルヴァニアの独立を守るため、ボチュカイはトルコ人を支持するようになった。1605年、ジョルジョ・バスタの追い出しに大いに貢献したとして、メジェスで開かれた公国の議会は、ボチュカイをトランシルヴァニア公に選出した。この報を聞いたオスマン帝国のスルタンアフメト1世は、特使を派遣してボチュカイの即位を祝い、ペルシアで作られた絢爛豪華な宝冠を贈った。ボチュカイは王として遇されるのは固辞したが、トルコ人との同盟関係は効果的に利用した。一方、ハプスブルク帝国に属するハンガリー地域を保持するべく、マティアス大公は頼りにならない兄ルドルフ2世を脇に押しやってボチュカイとの交渉を行い、1606年6月23日にウィーンの和約を締結した。

和約は王領ハンガリーとトランシルヴァニアの両国における全ての国法、宗教的権利および諸特権を保障するものだった。ボチュカイはオーストリア宮廷からトランシルヴァニア公と認められ、これ以後、トランシルヴァニア人達は自分達の君主を選ぶ権利を持つことも公認された。さらに、もしボチュカイが子供のないまま死ねばオーストリア領に復帰するという条件付きで、トカイ要塞とベレグ郡サトマール郡ウゴチャ郡の3郡がボチュカイに割譲された。また同時に、ジタヴァ川河畔でもオーストリアとオスマン帝国との間でジトヴァトロクの和約が結ばれたが、こちらの和約でもウィーンの和約が確認された。

ボチュカイは外交における大成功を収めたが、和約から5ヵ月後の11月29日、大法官カータイ・ミハーイによって毒殺された。カータイは町の市場で、ボチュカイの部下達によってばらばらに切り刻まれて処刑された。次の公はラーコーツィ家からラーコーツィ・ジグモンドが選出された。ボチュカイの治世は僅か1年に過ぎなかったが、ウィーンの和約はトランシルヴァニアにおける重要な条約となり、その後の歴史に影響を与えた。

パブリックドメイン この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

爵位・家督
先代
ルドルフ2世
トランシルヴァニア公
1605年 - 1606年
次代
ラーコーツィ・ジグモンド