ペトレ・ロマン
ペトレ・ロマン Petre Roman | |
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ペトレ・ロマン(1989年12月23日) | |
生年月日 | 1946年6月22日(77歳) |
出生地 | ルーマニア ブカレスト |
出身校 | ブカレスト工科大学 |
前職 | エンジニア |
所属政党 |
(民主自由党→) (民主勢力党→) 国民自由党 |
第53代首相 | |
内閣 |
第1次ロマン内閣 第2次ロマン内閣 第3次ロマン内閣 |
在任期間 | 1989年12月26日 - 1991年10月1日 |
大統領 | イオン・イリエスク |
第38代上院議長 | |
在任期間 | 1996年11月27日 - 2000年2月22日 |
在任期間 | 1999年12月22日 - 2000年12月28日 |
ペトレ・ロマン(Petre Roman、1946年6月22日 - )は、ルーマニアの政治家、元首相。
ルーマニア革命によりチャウシェスク夫妻が処刑された翌日の1989年12月26日から、鉱山労働者率いるMiron Cozmaによる一連の暴動で政権転覆し首相の座を追われた1991年10月1日まで務めた。
概要
彼は、66の民主主義国における元国家元首の世界会議であるマドリード・クラブの会員である。また、1996年から1999年までルーマニア元老院議長を、1999年から2000年まで外務大臣を務めた。2003年に民主自由党を離党、2004年において民主勢力党を結成し、選挙に臨んだが結果は振るわなかった。2008年9月、政府上級代表に就き、2008年11月30日に行われた選挙では元老院第43選挙区で国民自由党から出馬した。
父親Valter Romanは生名Ernő Neuländerでありトランシルヴァニア系ユダヤ人であった。父親はスペイン内戦に国際旅団の義勇兵として参加したコミンテルンの活動家で、ルーマニア共産党の著名な党員でもあった。彼の母親であるHortensia Vallejoはスペイン系であった。両親は、モスクワで結婚した。彼には数人兄弟姉妹がいる。1963年、電気工学を学ぶためブカレスト工科大学に入学、1968年に学位を取得。1971年から1974年まで、フランスに留学。
1974年において彼はMioara Georgescuと結婚。娘Oanaを儲けた。2007年2月にて、夫妻は離婚することを確認し、最終的に2007年4月7日聖金曜日をもって正式に離婚した。彼は、ルーマニア正教会の儀式に則り、すでに妊娠していたSilvia Chifiriucと再婚した.[1]。
彼は、ルーマニア革命で頭角を現し、群衆によって占拠された国営テレビ局において革命の勝利を示すメッセージを放送した。
脚注
- ^ (ルーマニア語) "Petre Roman s-a cununat religios cu Silvia Chifiriuc" ("Petre Roman Has Religious Wedding with Silvia Chifiriuc"), Mediafax, 6 June 2009; accessed June 6, 2009
公職 | ||
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先代 コンスタンティン・ダスカレスク |
ルーマニア共和国首相 1989 - 1991 |
次代 テオドール・ストロシヤン |